日本は世界一の高齢化国とされています。日本には、長寿祝いというものがあります。61歳の「還暦」、70歳の「古希」、77歳の「喜寿」、80歳の「傘寿」、88歳の「米寿」、90歳の「卒寿」、99歳の「白寿」などですね。
沖縄の人々は「生年祝い」としてさらに長寿を盛大に祝いますが、長寿祝いにしろ生年祝いにしろ人が幸せに生きていく上でとても重要です。
神道は、「老い」というものを神に近づく状態としてとらえています。神への最短距離にいる人間のことを「翁」と呼びます。また7歳以下の子どもは「童」と呼ばれ、神の子とされます。つまり、人生の両端にあたる高齢者と子どもが神に近く、それゆえに神に近づく「老い」は価値を持っているのです。だから、高齢者はいつでも尊敬される存在であると言えます。
生年祝いというセレモニーは、高齢者が厳しい生物的競争を勝ち抜いてきた人生の勝利者であり、神に近い人間であるのだということを人々にくっきりとした形で見せてくれます。それは大いなる「老い」の祝宴なのです。古代ギリシャの哲学者であるソクラテスは、「哲学とは、死の学びである」と言いましたが、私は「死の学び」である哲学の実践として二つの方法があると思います。一つは、他人のお葬式に参列することです。
もう一つは、自分の長寿祝いを行うことです。神に近づくことは死に近づくことであり、長寿祝いを重ねていくことによって、人は死を想い、死ぬ覚悟を固めていくことができます。もちろんそれは自殺とかいった問題とはまったく無縁で、あくまでポジティブな「死」の覚悟です。
人は長寿祝いで自らの「老い」を祝われるとき、祝ってくれる人々への感謝の心とともに、いずれ一個の生物として自分は必ず死ぬという運命を受け入れる覚悟を持つ。
また翁となった自分は、死後に神となって愛する子孫たちを守っていくのだという覚悟を持つ。祝宴のなごやかな空気のなかで、高齢者にそういった覚悟を自然に与える力が、長寿祝いにはあります。
そういった意味で、生年祝いとは生前葬でもあります。人間は必ず老い、必ず死にます。それは不幸なことではありません。私は「老い」から「死」へ向かう人間を励ます生年祝いという心豊かな文化を、世界中に発信したいと思っています。