2019
8
株式会社サンレー
代表取締役社長
佐久間庸和
8月は死者を想う季節
日本にはグリーフケア仏教がある!
●お盆は休みのためにある?
今年も8月がやってきました。日本人全体が死者を思い出す季節です。
6日の広島原爆の日、9日の長崎原爆の日、12日の御巣鷹山の日航機墜落事故の日、そして15日の終戦の日というふうに、3日置きに日本人にとって忘れられない日が訪れるからです。
そして、それはまさに日本人にとって最も大規模な先祖供養の季節である「お盆」の時期とも重なります。まさに8月は「死者を想う季節」と言えるでしょう。
お盆といえば、墓参りです。これは、法要や命日に合わせ、お盆には欠かせない行事でした。ところがお盆は今、夏季休暇の一つになってしまっているのではないでしょうか。たしかに「お盆休み」という言い方で、日本人は夏休みを取る習慣があります。
「休み」というと、西洋的な考え方ではバカンスというか、リフレッシュするという意味合いが強いわけですが、日本においては「帰省」という言葉に代表されるように、故郷に帰る意味が込められていました。
●薄くなる「家」の意識
お盆休みとは、まさに、子孫である孫たちを連れて、先祖(祖父母を含む)に会いに夫の故郷へ帰るというものだったのです。
じつは、こうした風習も今、不合理ということで変化してきました。同じ時期にみんなで休めば、電車や飛行機といった交通機関は混む上に高い、ということで分散するようになり、家族旅行は夫の故郷への帰省ではなく、国内や海外への家族旅行になっています。
おばあちゃんが孫のためにつくった郷土料理は、いつの間にかファミレスのハンバーグになり、回転すしになってしまいました。こうしたことも、先祖や家族との結びつきを希薄にしているのではないでしょうか。
「家」の意識などというと、良いイメージを抱く人は少ないかもしれません。戦後の日本人は、「家」から「個人」への道程をひたすら歩んできました。それは、わたしのように冠婚葬祭を業としている者から見ると、その変化がよくわかります。
●先祖や子孫への「まなざし」
たとえば結婚式。かつては「○○家・△△家結婚披露宴」として家同士の縁組みが謳われていたものが、今ではすっかり個人同士の結びつきになっています。
葬儀も同様です。次第に家が出す葬儀から個人葬の色合いが強まり、中には誰も参列者がいないという孤独葬という気の毒なケースも増えてきました。
たしかに戦前の家父長制に代表される「家」のシステムは、日本人の自由を著しく拘束してきたと思います。なにしろ「家」の意向に反すれば、好きな職業を選べず、好きな相手と結婚できないという非人間的な側面もあったわけですから。その意味で、戦後の日本人が「自由」化、「個人」化してきたことは悪いことではないと思います。
でも、「個人」化が行き過ぎたあまり、とても大事なものを失ってしまったのではないでしょうか。それが、先祖や子孫への「まなざし」であると思います。
●日本仏教の制度疲労
凶悪犯罪や自死などが増えているようですが、その「まなざし」の喪失が影響しているように思えます。殺人などの凶悪犯罪に手を染める場合には「先祖に申し訳ない」という意識が働き、自ら命を絶つ場合には「自殺すれば子孫が迷惑するのでは」という想像力が働くのではないでしょうか。それらが失われ、残ったのは自分という「個」の意識、すなわち「自我」だけになってしまったのです。
倫理的に最も悪質であるとされる「親殺し」や「子殺し」が現代日本で増加している背景にも、「自我」の肥大化があるように思えてなりません。
こう言った変化の背景には、明らかに宗教の問題もあります。要するに、仏教のパワーが弱まってきているのです。「千の風になって」が流行った頃から、この問題がクローズアップされてきましたが、わたしは仏式葬儀というものが一種の制度疲労を起こしているような気がします。
●グリーフケア仏教の力
よく「葬式仏教」とか「先祖供養仏教」など批判的に言われますが、日本仏教の本質は「グリーフケア(死後悲嘆のケア)仏教」であると思います。互助会や葬儀社がグリーフケア・サポートの力を今後つければ、もしかすると「葬儀の場面から宗教なんていらない」ということにもなりかねません。
しかし、一方で、日本の宗教の強みは葬儀にあるとも思います。「成仏」というのは有限の存在である「ヒト」を「ホトケ」という無限の存在に転化させるシステムではないでしょうか。ホトケになれば、永遠に生き続けることができます。仏式葬儀には、ヒトを永遠の存在に転化させる機能があるのです。これは、ものすごいことです。
一般庶民の宗教的欲求とは、自身の「死後の安心」であり、先祖をはじめとした「死者の供養」に尽きます。「葬式仏教」とは、日本におけるグリーフケアの文化装置でした。
通夜、告別式、初七日、四十九日と続く、日本仏教における一連の死者儀礼の流れにおいて、初盆は一つのクライマックスでもあります。東日本大震災の被災地での初盆からもわかったように、日本における最大のグリーフケア・システムと言ってもよいでしょう。
今後、葬儀や供養の「かたち」も多様に変化していくでしょうが、原点、すなわち「初期設定」を再確認した上で、時代に合わせた改善、いわば「アップデート」を心掛ける努力が必要なのは言うまでもありません。
悲しみに寄り添うたびにしみじみと
儀式(かたち)のちから思ひ知るなり 庸軒
今年も8月がやってきました。日本人全体が死者を思い出す季節です。
6日の広島原爆の日、9日の長崎原爆の日、12日の御巣鷹山の日航機墜落事故の日、そして15日の終戦の日というふうに、3日置きに日本人にとって忘れられない日が訪れるからです。
そして、それはまさに日本人にとって最も大規模な先祖供養の季節である「お盆」の時期とも重なります。まさに8月は「死者を想う季節」と言えるでしょう。
お盆といえば、墓参りです。これは、法要や命日に合わせ、お盆には欠かせない行事でした。ところがお盆は今、夏季休暇の一つになってしまっているのではないでしょうか。たしかに「お盆休み」という言い方で、日本人は夏休みを取る習慣があります。
「休み」というと、西洋的な考え方ではバカンスというか、リフレッシュするという意味合いが強いわけですが、日本においては「帰省」という言葉に代表されるように、故郷に帰る意味が込められていました。
●薄くなる「家」の意識
お盆休みとは、まさに、子孫である孫たちを連れて、先祖(祖父母を含む)に会いに夫の故郷へ帰るというものだったのです。
じつは、こうした風習も今、不合理ということで変化してきました。同じ時期にみんなで休めば、電車や飛行機といった交通機関は混む上に高い、ということで分散するようになり、家族旅行は夫の故郷への帰省ではなく、国内や海外への家族旅行になっています。
おばあちゃんが孫のためにつくった郷土料理は、いつの間にかファミレスのハンバーグになり、回転すしになってしまいました。こうしたことも、先祖や家族との結びつきを希薄にしているのではないでしょうか。
「家」の意識などというと、良いイメージを抱く人は少ないかもしれません。戦後の日本人は、「家」から「個人」への道程をひたすら歩んできました。それは、わたしのように冠婚葬祭を業としている者から見ると、その変化がよくわかります。
●先祖や子孫への「まなざし」
たとえば結婚式。かつては「○○家・△△家結婚披露宴」として家同士の縁組みが謳われていたものが、今ではすっかり個人同士の結びつきになっています。
葬儀も同様です。次第に家が出す葬儀から個人葬の色合いが強まり、中には誰も参列者がいないという孤独葬という気の毒なケースも増えてきました。
たしかに戦前の家父長制に代表される「家」のシステムは、日本人の自由を著しく拘束してきたと思います。なにしろ「家」の意向に反すれば、好きな職業を選べず、好きな相手と結婚できないという非人間的な側面もあったわけですから。その意味で、戦後の日本人が「自由」化、「個人」化してきたことは悪いことではないと思います。
でも、「個人」化が行き過ぎたあまり、とても大事なものを失ってしまったのではないでしょうか。それが、先祖や子孫への「まなざし」であると思います。
●日本仏教の制度疲労
凶悪犯罪や自死などが増えているようですが、その「まなざし」の喪失が影響しているように思えます。殺人などの凶悪犯罪に手を染める場合には「先祖に申し訳ない」という意識が働き、自ら命を絶つ場合には「自殺すれば子孫が迷惑するのでは」という想像力が働くのではないでしょうか。それらが失われ、残ったのは自分という「個」の意識、すなわち「自我」だけになってしまったのです。
倫理的に最も悪質であるとされる「親殺し」や「子殺し」が現代日本で増加している背景にも、「自我」の肥大化があるように思えてなりません。
こう言った変化の背景には、明らかに宗教の問題もあります。要するに、仏教のパワーが弱まってきているのです。「千の風になって」が流行った頃から、この問題がクローズアップされてきましたが、わたしは仏式葬儀というものが一種の制度疲労を起こしているような気がします。
●グリーフケア仏教の力
よく「葬式仏教」とか「先祖供養仏教」など批判的に言われますが、日本仏教の本質は「グリーフケア(死後悲嘆のケア)仏教」であると思います。互助会や葬儀社がグリーフケア・サポートの力を今後つければ、もしかすると「葬儀の場面から宗教なんていらない」ということにもなりかねません。
しかし、一方で、日本の宗教の強みは葬儀にあるとも思います。「成仏」というのは有限の存在である「ヒト」を「ホトケ」という無限の存在に転化させるシステムではないでしょうか。ホトケになれば、永遠に生き続けることができます。仏式葬儀には、ヒトを永遠の存在に転化させる機能があるのです。これは、ものすごいことです。
一般庶民の宗教的欲求とは、自身の「死後の安心」であり、先祖をはじめとした「死者の供養」に尽きます。「葬式仏教」とは、日本におけるグリーフケアの文化装置でした。
通夜、告別式、初七日、四十九日と続く、日本仏教における一連の死者儀礼の流れにおいて、初盆は一つのクライマックスでもあります。東日本大震災の被災地での初盆からもわかったように、日本における最大のグリーフケア・システムと言ってもよいでしょう。
今後、葬儀や供養の「かたち」も多様に変化していくでしょうが、原点、すなわち「初期設定」を再確認した上で、時代に合わせた改善、いわば「アップデート」を心掛ける努力が必要なのは言うまでもありません。
悲しみに寄り添うたびにしみじみと
儀式(かたち)のちから思ひ知るなり 庸軒