第10回
一条真也
「葬式に迷う日本人」

 

 宗教学者の島田裕巳氏とわたしの共著『葬式に迷う日本人』(三五館)が刊行された。互いに2通ずつの書簡を交わしたあと、巻末ではガチンコ対談している。
 かつて、私は島田氏の『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)というベストセラーに対し、反論の書として『葬式は必要!』(双葉新書)を書いた。それからNHK番組での討論を経て、その5年後、再び島田氏の著書『0葬』(集英社)に対抗して『永遠葬』(現代書林)を執筆した。
 島田氏は、葬式無用論の代表的論客として有名だが、一方で私は葬式必要論者の代表のようにみられることが多い。そんな2人が共著を出したということに驚いた人も多いようである。
 しかし、意見が違うからといって、いがみ合う必要などまったくない。意見の違う相手を人間として尊重したうえで、どうすれば現代の日本における「葬儀」をもっと良くできるかを考え、そのアップデートの方法について議論を深めることが大切だ。
 最近、原発や安保の問題にせよ、意見の違う者が対話しても、相手の話を聞かずに一方的に自説を押し付けるだけのケースが目立つ。ひどい場合は、相手に話をさせないように言論封殺するケースもある。そんな姿を子供たちが見たら、どう思うだろうか。間違いなく、未来に悪影響しか与えないはずである。私たちは互いに相手の話をきちんと傾聴し、自分の考えもしっかりと述べ合った。
 当事者が言うのもなんだが、理想的な議論が実現したように思う。私は、島田氏と大いに語り合って、改めて日本における葬儀のアップデートの必要性を痛感した。日本人の葬儀の9割以上は仏式だが、これが一種の制度疲労を起こしているのではないだろうか。
 よく「葬式仏教」とか「先祖供養仏教」とか言われるが、これまでずっと日本仏教は日本人、それも一般庶民の宗教的欲求を満たしてきたことを忘れてはならないだろう。その宗教的欲求とは、自身の「死後の安心」であり、先祖をはじめとした「死者の供養」に尽きる。
 「葬式仏教」は、一種のグリーフケアともいえる文化装置だったのである。日本の宗教の強みは葬儀にある。「成仏」というのは有限の存在である「ヒト」を「ホトケ」という無限の存在に転化させるシステムではないか。ホトケになれば、永遠に生き続けることができる。仏式葬儀には、ヒトを永遠の存在に転化させる機能があるのだ。
 2011年の夏、東日本大震災の被災地が初盆を迎えた。地震や津波の犠牲者の「初盆」だったが、生き残った被災者の心のケアという面からみても非常に重要であった。多くの被災者がこの初盆を心待ちにしていたのである。通夜、告別式、初七日、四十九日と続く、日本仏教における一連の死者儀礼の流れにおいて、初盆はひとつのクライマックスである。日本における最大のグリーフケア・システムといってもよいかもしれない。
 そして、次の大事なことを忘れてはならない。それは基本的に仏式葬儀がなければ、初盆はないということである。仏式葬儀があって、初七日や四十九日があって、初盆が来るのである。例えるなら、小学校に入学しなければ運動会や修学旅行を経験できないのと同じだ。
 今後、葬儀はさまざまなかたちに変わっていくであろうが、原点、すなわち「初期設定」を再確認したうえで、時代に合わせた「アップデート」、さらには「アップグレード」を心がけることが必要である。