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一条真也
「儀式は永遠に不滅である」

 

 わたしの最新刊『儀式論』(弘文堂)が刊行された。合計600ページの厚さで函入り、わが代表作となる予感がする。とにかく、結婚式にしろ、葬儀にしろ、儀式の意味というものが軽くなっていく現代日本において、かなりの悲壮感をもって書いた。
 わたしは、人間は神話と儀式を必要としていると考える。社会と人生が合理性のみになったら、人間の心は悲鳴を上げてしまうだろう。
 結婚式も葬儀も、人類の普遍的文化である。多くの人間が経験する結婚という慶事には結婚式、すべての人間に訪れる死亡という弔事には葬儀という儀式によって、喜怒哀楽の感情を周囲の人々と分かち合う。
 このような習慣は、人種・民族・宗教を超えて、太古から現在に至るまで行われてきたものだ。儀式とは人類の行為の中で最古のもの。ネアンデルタール人も、現生人類(ホモ・サピエンス)も埋葬をはじめとした葬送儀礼を行っていた。
 人類最古の営みといえば、他にもある。石器を作るとか、洞窟に壁画を描くとか、雨乞いの祈りをするとか。しかし現在、そんなことをしている民族はいない。儀式だけが現在も続けられているのだ。最古にして現在進行形ということは、儀式という営みには普遍性があるのではないか。ならば、人類は未来永劫にわたって儀式を続けるはずである。
 わたしは、儀式を行うことは人類の本能ではないかと考える。ネアンデルタール人の骨からは、葬儀の風習とともに身体障害者をサポートした形跡が見られる。儀式を行うことと相互扶助は、人間の本能なのだ。
 これはネアンデルタール人のみならず、わたしたち現生人類の場合も同じである。儀式および相互扶助という本能がなければ、人類はとうの昔に滅亡していたのではないだろうか。
 わたしは、この本能を「礼欲」と名づけたいと思う。「人間は儀式的動物である」という哲学者ウィトゲンシュタインの言葉にも通じる考えだ。
 礼欲がある限り、儀式は不滅である。