第8回
一条真也
「死生観を持っていますか」
熊本県で始まった地震活動は大分県に広がり、被害が拡大した。一連の地震によって犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げるとともに、被災された方々にお見舞い申し上げたい。
わたしも九州に住んでいるが、まさか九州であんな大きな地震が起こるとは夢にも思わなかった。そして、いつ何が起こって、突然、人生が終了してしまうかもしれないということを改めて痛感した。みなさんには自分自身、そして愛する人の死が明日突然に訪れるかもしれないという切実さがあるだろうか。
熊本地震の約1カ月前、東日本大震災の発生から5年が経過して、マスメディアは大々的に報道していたが、亡くなられた方やご家族を憐れみや同情で語ることに終始したのでは「他人事」のままである。誰も、6年目の報道を「他人事」で迎えられる保証はない。
「今日」という日が「残された人生における第1日目」という厳粛な事実に無頓着では充実した人生は望めないのではないだろうか。
わたしたちは、どこから来て、どこに行くのか。そして、この世で、わたしたちは何をなし、どう生きるべきなのか。これ以上に大切な問題など存在しない。
なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け入れがたい話はないのである。
明日ありと 想うこころの 仇桜
夜半に嵐の 吹かぬものかは
これは浄土真宗の宗祖である親鸞が9歳で得度する前夜に詠んだ歌だが、明日を保証されている人など誰もいないということを、わたしたちは忘れているようである。
死を見つめることは、生を輝かせること。『葉隠』の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の一句は、じつは壮大な逆説ではないだろうか。『葉隠』の説く武士道が死の道徳であるという解釈は大きな誤解である。この書は武士としての理想の生をいかにして実現するかを追求した「生の哲学」の箴言なのだ。
そして、「生の哲学」を最も感じさせるものこそ、わが国の戦国乱世に生きた武将たちの死生観である。特に、彼らが辞世の歌を詠む心境に「人生を修める」という覚悟を強く感じてしまう。
極楽も 地獄も先は 有明の
月の心に 懸かる雲なし
これは、戦国武将のなかでもわたしが最も尊敬する上杉謙信の辞世の歌である。その大
意は「生まれかわる先が極楽でも地獄でもよい。今は夜明けに残る月のように、心は
晴れ晴れしている」といったところだろうか。
ただ「生きる」のではなく「美しく生きる」ことにこだわり、「非道を知らず存ぜず」という信条を持っていた謙信の「生きざま」は彼の辞世にも強く反映しているように思えるのである。
戦国の武将だけではない。幕末の志士たちも辞世の句を詠み、この世を去っていった。日本人は、辞世の歌や句を詠むことによって、「死」と「詩」を結びつけたのだ。
そして、「死」と「志」も深く結びついていた。死を意識し覚悟して、はじめて人はおのれの生きる意味を知る。有名な坂本龍馬の「世に生を得るは事を成すにあり」こそは、死と志の関係を解き明かした言葉なのである。
現代日本に生きるわたしたちも、戦国武将や幕末の志士たちのように、死生観を持つことによって、生きる意味を知るのではないか。
死生観を持つことこそ、豊かな老後を送るために必要な心得だろう。