第98回
一条真也
『羊と鋼の森』宮下奈都著(文藝春秋)
2016年の本屋大賞を受賞して注目されている長編小説で、北海道の山村部で生まれた1人の青年外村がピアノの調律師として成長していく物語です。
小川洋子氏の『博士の愛した数式』が数学を、原田マハ氏が『楽園のカンバス』で絵画を、それぞれ小説のテーマとして見事に描いたように、本書では音楽とピアノの魅力が生き生きと描かれています。『羊と鋼の森』とは不思議なタイトルですが、羊とは「ピアノの弦を叩くハンマーに付いている羊毛を圧縮したフェルト」、鋼とは「ピアノの弦」、そして森とは「ピアノの材質の木材」を表します。羊のハンマーが鋼の弦をたたくことによって、聴く者を音楽の森に誘うという意味もあり、書名からして文学的ですね。
本書を一気に読み終えて思ったことは、「この作家は本当に小説を書くことが好きなのだな」ということでした。良い意味で文学少女がそのまま大人になったようなピュアな心を感じました。
冒頭の「森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。」という一文からも、作者の小説への愛情がひしひしと伝わってきます。
本書を読んで初めて知ったのですが、ピアノの基準音となるラの音は、学校のピアノなら440ヘルツと決められているのだとか。ヘルツというのは一秒間に空気が振動する回数のことですが、赤ん坊の産声は世界共通で440ヘルツです。
しかし、外村の先輩調律師である柳は、「でもさ、俺たちが探すのは440ヘルツかもしれないけど、お客さんが求めているのは440ヘルツじゃない。美しいラなんだよ」と言うのでした。名言です。その柳は繊細な神経の持ち主で、不自然なものを見ると気分が悪くなるのですが、そのとき、彼はメトロノームによって救われました。
作者はメトロノームのことを「何かに縋って、それを杖にして立ち上がること。世界を秩序立ててくれるもの。それがあるから生きられる、それがないと生きられない、というようなもの」と表現していますが、これは「儀式」と同じです。
儀式とは何よりも世界に秩序を与えるものです。それは、時間と空間に秩序を与え、社会に秩序を与え、そして人間の心のエネルギーに秩序を与えます。
そして、儀式は「人類全体の初原状態を一時的に再現」することです。ピアノの調律というのも「初原状態の再現」にほかなりません。ちなみに、この小説のラストは幸せな結婚式の場面となっています。