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一条真也
「死からの始まり『レヴェナント:蘇えりし者』」
一条真也です。
映画「レヴェナント:蘇えりし者」を観ました。
第88回アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演男優賞など同年度最多の12部門にノミネートされ、レオナルド・ディカプリオが主演男優賞を受賞して自身初のオスカー像を手にしました。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督も、前年の「バードマン」に続いて2年連続の監督賞を。撮影監督のエマニュエル・ルベツキも3年連続で撮影賞を受賞しました。
舞台は、アメリカ西部の原野です。ハンターのヒュー・グラス(ディカプリオ)は狩猟の最中に熊の襲撃を受けて瀕死(ひんし)の重傷を負います。彼は、仲間のジョン・フィッツジェラルド(トム・ハーディ)に裏切られて置き去りにされますが、かろうじて死の淵(ふち)から生還します。グラスは、自分を見捨てたフィッツジェラルドにリベンジを果たすべく、大自然の猛威に立ち向かいながらおよそ300キロに及ぶ過酷な道のりを突き進んでいくのでした。
アカデミー受賞作品の公開直後とあって、映画館は満員でした。わたしは最前列で鑑賞したのですが、ずっとスクリーンを見上げっぱなしでした。そこで、次々にスクリーンに映し出される圧倒的な大自然の映像を神のように崇める姿勢で2時間37分を過ごしたのです。率直な感想は面白かったです。異様にセリフが少ない映画なのですが、ディカプリオの鬼気迫る演技に魅了されました。ある意味で、究極の「死が怖くなくなる映画」であると思いました。なぜなら、一度死んだはずの者が蘇える話だからです。数少ないセリフの中に「死など怖れない」というディカプリオのセリフが出てきますが、確かに死者にとって死は怖くないでしょうね。よく「死んだ気になって頑張る」などと言いますが、心の底から「自分は死者である」と思い込んでしまえば、死の恐怖など消えていくのです。
ところで、この映画の舞台となる自然はあまりにも過酷でした。このたびの熊本地震でも自然の脅威を嫌というほど思い知らされました。よく、「自然を守ろう」とか「地球にやさしく」などと言います。しかし、それがいかに傲慢な発想であるかがわかります。やさしくするどころか、自然の気まぐれで人間は生きていられるのです。生殺与奪権は人間にではなく、自然の側にあるということです。
この映画では人間のみならず、熊や馬などの動物も次々に死にます。優秀なハンターである主人公のグラスは、人間も殺せば動物も殺します。しかし、そこにはある種の美学や作法のようなものが存在していました。彼は決して無駄な殺生はしません。彼が何らかの生命を奪う場合は、自らの身を守るためとか、食糧にするためとか、寒さを凌ぐためなどの明確な理由があったのです。
その彼にとって、唯一殺してもいい相手、殺す理由が100%存在する相手がいました。その「憎んでも憎みきれない」宿敵に復讐する場面では、おそらくすべての観客が溜飲を下げたのではないでしょうか。正直、このわたしも大きなカタルシスを得ました。
建国200年あまりで巨大化した神話なき国・アメリカは、さまざまな人種からなる多民族国家であり、統一国家としてのアイデンティティー獲得のためにも、どうしても神話の代用品が必要でした。それが、映画です。映画はもともと19世紀末にフランスのリュミエール兄弟が発明しましたが、ほかのどの国よりもアメリカにおいて映画はメディアとして、また産業として飛躍的に発展しました。映画とは、"神話なき国の代用品"だったのです。次々に製作された西部劇こそ、アメリカの神話であったと思います。
一連の西部劇映画には、北米大陸の先住民、いわゆる「ネイティブ・アメリカン」の人々が登場します。かつては、「インディアン」と呼ばれました。西部劇のインディアンは開拓者である白人を襲う悪者でした。このあたりにアメリカ神話の本質が露骨に現れているわけですが、ケビン・コスナーが主演した「ダンス・ウィズ・ウルブス」(1990年)などには等身大のネイティブ・アメリカンの姿が描かれました。
「レヴェナント:蘇えりし者」のラストシーン近くで、ネイティブ・アメリカンの一行がグラスの傍らを通りかかり、かつてグラスが助けた女性が彼に憐れみのような視線を投げかけます。それは「殺し合いを続けるあなた方が気の毒でならない」と言っているようで、強く心に残りました。