第97回
一条真也
『嫌老社会を超えて』五木寛之著(中央公論新社)

 

 先日、作家の五木寛之氏を講師に迎え、サンレー創立50周年記念の講演会を開催しました。講演会に先だち、控室で五木氏とお話させていただきましたが、84歳を迎えた今もお元気な姿に驚きました。
 わたしは、昔から五木作品の大ファンです。中学時代に『青春の門』に夢中になり、その影響で早稲田大学に進学することを心に決めたほどです。五木氏の本はほとんど読ませていただきました。現在、五木氏とは「サンデー毎日」で一緒に連載をさせていただいており、とても光栄に思っております。
 その五木氏が「豊かな高齢社会」についてエッセイ風に綴ったのが、本書です。高齢者は「すでに孫もできた」「功成り名を挙げた」にもかかわらず、「もっと長生きしたい」と請い願います。これは、どうしてなのか。五木氏は次のように述べます。
「まず考えられるのは、人には『何がなんでも生きていたい』という本能がある、ということです。食欲や性欲と同じような、『生存欲』という人間の持つ根源的な欲求です。ですから、いくつになっても生きていたいと本能的に思う。他人から『老醜』と笑われようがどうしようが、そんなことは関係がない。若い世代からすると、時として理解しづらい言動に映ったりもするでしょう」
 それでは、五木氏自身はなぜ84歳になっても生きているのか。あるいは、もっと生きたいと思うのは、なぜか。この質問に対して、五木氏は自身が生きる理由を次のように述べます。
「笑われるのを承知で言えば、私は『この世界がどう変わっていくのか、見ていたい』のです。日本だけではなく、アジアが、世界全体が、この先どのような変貌を遂げていくのかを目撃したい。知りたい。そのために長生きがしたいのです」
 本書では、今後の高齢者にとっての理想の生き方が以下のように語られます。
「『よりよい生き方』の最たるものは、『社会貢献』であるはずです。働くことに生きがいを感じられるのなら、年齢制限なく、そうすべきです」
 五木氏は、できるだけ社会保障の世話にならない覚悟で生きていくことを薦めます。たとえば、100歳を過ぎたら選挙権は悠然と下の世代に譲り、政は彼らに任せることを提案します。それこそが、高齢社会に生きる老人の自然な姿、「賢い生き方」なのではないかというのです。
 そう、それは嫌老ならぬ「賢老」という生き方なのです。そんな自立した老人たちが生き生きと暮らす世の中を、五木氏は「賢老社会」と呼んでおられます。