第10回
一条真也
「日本文化と花」
わたしは、歌舞伎が好きです。
演劇としての歌舞伎には華があります。「華」は「花」に通じますが、歌舞伎にはもともと「花形」や「花道」といった花にまつわる言葉があります。相撲や芝居で花形に与えるお金も「花」と呼びます。
力士や役者への心づけを「花」というのは、まず見物のときに造花を贈って、翌日お金を届ける習慣から来たそうです。歌舞伎の「花道」も、ここを渡って客が役者に花を贈ったことから、この名がついたわけですね。「花形役者」は、客から花を贈られるほどの才能の持ち主というのが本来の意味です。
また、芸者や遊女と遊んだ料金を「花代」といいます。これも、花に代わるものとしての金銭という意味ですね。どの言葉も、遊芸者と客のあいだの花のやりとりに起源があることに気づきます。これは、もともと花が御幣(ごへい)として神々を呼ぶ力を持っていたことにも関係があります。
力士にしろ、遊女にしろ、遊芸者とは神々の代理人という役割があったわけですね。彼らは人間界の「花」でした。しかし、何よりも人間界の「花」といえば、役者に尽きるでしょう。
現在でも芸能人のことをスターと呼びますが、かつては役者のことを「花」と呼んだのです。
江戸には三つの花がありました。火事と喧嘩は、みなさんもご存じかと思います。もう一つの花とは何か。それは、歌舞伎役者の市川團十郎でした。当時の江戸っ子たちは、口々に團十郎を「江戸の花」と讃えました。『明和伎鑑(めいわぎかん)』という本では、團十郎を役者の氏神と記していますが、とにかく「江戸の飾海老」とも「江戸の花」とも称された大スターでした。十三代目市川團十郎となるであろう市川海老蔵も、まさに天性の「江戸の花」という雰囲気を持っていますね。
さて、歌舞伎という芸能は能から派生しました。その能を大成した人物こそは、室町時代の世阿弥(ぜあみ)です。世界的にもユニークな芸術論を展開した世阿弥の『風姿花伝』は、俗に『花伝書』と呼ばれるように、結局は「花」を論じた書物なのです。
世阿弥は「花と、面白きと、珍しき」の3つは同じ心であると述べています。また、「花は、見る人の心に珍しきが花なり」として、人に感銘を与えるものを花としてみています。物まね・幽玄の風姿がどうしたら人に感銘を与えうるか、その根本を世阿弥は花と見たわけです。
中世の「たて花」は、花を否定して新しい花を発見しました。それは阿弥と呼ばれる身分の低い階層の芸人や僧侶たちが、水墨画や禅の影響によって、古代以来の日本の伝統を新たに結晶させたものでした。
すなわち、日本の社会に一貫して流れてきた「いのち」のシンボルとしての花の思想と、仏教の「空」の理論とが交差して、生け花や能楽のような新しい文化としての芸道における「花」が誕生したのです。
新しい「花」を最初に誕生させた人物こそ、世阿弥でした。芸道とは、まず世阿弥による能楽の道からはじめて生まれたとされます。
その後に、茶道や花道といった言葉が生まれてきたのです。新しい「花」との深い心の語らいのなかから、詩や歌や絵が生まれ、さまざまな舞台芸術も創造されました。世阿弥は舞台で、生きた人間の「いのち」と共感しあう花を咲かせました。西行や芭蕉は花と心の会話を交わし、そのつぶやきを歌や句として残しました。利休の演じた朝顔の花一輪も、花を究めた花への執念ともいえます。
さらには、宗達も光琳も、良寛も一茶も、それぞれに表現の違いはあれども、みなこの花の「いのち」に語りかけることをやめなかったのです。それは近代の画家や詩人を経て、現在のわたしたちにまで続いています。
わたしたち日本人は、花を野や山に、あるいは庭に見いだします。また、舞台や茶室にも見いだします。さらには、花をそのまま着物に染め、織り出してこれを着ました。日本人ほど花の絵柄の着物を好む民族もいません。桜や梅はもちろん、藤の花とか水仙、光琳の描いた冬木小袖のようなものもあります。
日本人は、花の彼方(かなた)に花を追いました。花を求めてやまないその執念は、ついに花を否定した花を発見して、独自の花の文化を創造したといえるでしょう。まさに、日本人にとって花と芸術は切っても切り離せないのです。
そして、花をふんだんに飾る結婚披露宴や葬儀も立派な芸術だといえます。一般の人々が最も花に囲まれるのは冠婚葬祭の場においてです。冠婚葬祭とは花のアートでもあるのです。