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一条真也
「正月と日本人のこころのDNA」

 

 あけまして、おめでとうございます。みなさんは、この正月、初詣に行かれましたか? 新年になると、東京都内の明治神宮だけでも元日に300万人以上の参拝人が集まります。世界のどんな教会や寺院でも1日に数百万人も押しかけるという話は聞いたことがありません。そのありえない現象が日本中の神社で見られ、正月の風物詩となっているのです。
 日本人は誰が命令するのでもないけれど、元日になるとインプットされたデータが作動するように、「出てきなさい」という呼びかけがあるがごとく神社へ参拝します。受験勉強で忙しいはずの受験生でさえ、こぞってお参りします。わたしは、ここに日本人の「こころのDNA」を見るような気がします。
 また、日本人は正月になると門松を立て、雑煮を食べ、子どもたちにお年玉を渡します。ここにもインプットされた日本人の「こころのDNA」が影響しているのではないでしょうか。まさに、神道とは日本人の「こころ」の主柱であると言えるでしょう。
 日本人の「こころ」の柱は他にも存在します。仏教と儒教です。神道、仏教、儒教の三本柱が混ざり合っているところが日本人の「こころ」の最大の特徴であるといえるでしょう。そして、それをプロデュースした人物こそ、かの聖徳太子でした。
 聖徳太子こそは、宗教における大いなる編集者だったのです。儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的平安を実現する。すなわち社会の部分を儒教で、心の部分を仏教で、そして自然と人間の循環調停を神道が担う。三つの宗教がそれぞれ平和分担するという「和」の宗教国家構想を聖徳太子は説きました。いわば、神と仏を共生させるという離れ業をやったわけです。
 さて、わたしたち日本人にとって、正月に初日の出を拝んだり、有名な神社仏閣に初詣でに行くのは当たり前の光景ですね。しかし、これらの行事は日本の古くからの伝統だと思われがちですが、実のところ、初日の出も初詣でも、いずれも明治以降に形成された、「新たな国民行事」と呼べるものです。
 それ以前の正月元旦は、家族とともに、「年神」(歳徳神)を迎えるため、家のなかに慎み籠(こも)って、これを静かに待つ日でした。日本民俗学では、この年神とは、もとは先祖の霊の融合体ともいえる「祖霊」であったとされています。
 本来、正月は盆と同様に祖霊祭祀の機会でした。このことは、お隣の中国や韓国の正月行事を見ても容易に理解できるでしょう。つまり、正月とは死者のための祭りなのです。
 日本の場合、仏教の深い関与で、盆が死者をまつる日として凶礼化する一方、それとの対照で、正月が極端に「めでたさ」が追求される吉礼に変化しました。これは、「日本民俗学の父」である柳田國男の説です。
 日本民俗学は、國學院大學を中心として生まれました。わたしの父で、冠婚葬祭を業とするサンレーグループ会長の佐久間進は國學院の出身であり、日本民俗学が誕生した昭和10年にこの世に生を受けています。また、父は亥年ですが、ともに國學院の教授を務めた日本民俗学の二大巨人・柳田國男と折口信夫の二人も一回り違う亥年でした。
 父が國學院で日本民俗学を学び、そのまさに中心テーマである「冠婚葬祭」を生業としたことには運命的なものを感じます。わたし自身は、父から思想と事業を受け継いでおり、幼少の頃から日本民俗学の香りに触れてきました。
 「國學院」の「国学」とは、「日本人とは何か」を追求した学問です。契沖、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らが活躍しました。わたしの実家の書庫には彼らの全集がすべてそろっており、わたしは高校時代から国学に関心を抱いていました。
 そして、「日本人とは何か」という国学の問題意識を継承したのが、「新国学」としての日本民俗学です。実家の書庫には、柳田・折口の全集をはじめとする民俗学の本もすべて揃っており、それらを片っ端から読みました。
 わたしは、「無縁社会」などという言葉が一般化しつつある現在、日本人の原点を見直す意味でも日本民俗学の再評価が必要であると思います。わたしは現在、全国冠婚葬祭互助会連盟(全互連)の会長を務めています。そして、わたしは冠婚葬祭互助会の使命とは、日本人の原点を見つめ、日本人を原点に戻すこと、そして日本人を幸せにすることだと考えます。いわば、日本人を初期設定に戻すことが必要ではないかと思うのです。
 わたしたちは血縁、地縁といったさまざまな「縁」に支えられて生きています。そして、「縁」という目に見えないものを実体化して見えるようにするものこそ冠婚葬祭です。結婚式や葬儀、七五三や成人式や法事・法要のときほど、縁というものが強く意識されることはありません。冠婚葬祭が行われるとき、「縁」という抽象的概念が実体化され、可視化されるのではないでしょうか。わたしは、今年も冠婚葬祭によって日本人を幸せにしたいと願っています。