2015
12
株式会社サンレー
代表取締役社長
佐久間庸和
「バリ島で感じたこと
葬儀は直接芸術だ!」
●全互連のバリ島研修
先月、インドネシアのバリ島に行ってきました。わたしが会長を務める全国冠婚葬祭互助会連盟(全互連)の研修視察として、じつに四半世紀ぶりの訪問でした。
出発の数日前にインドネシア中部ロンボク島のリンジャニ山が噴火しました。そのため、海峡を挟んだ位置にあるバリ島のデンパサール国際空港は火山灰が上空に広がったので閉鎖されたので心配でしたが、無事に到着しました。
現地では、観月ありさがフェラーリ王子と結婚式を挙げたばかりのブルガリ・ホテルも視察しました。そのデザインからは、中津のヴィラルーチェを連想しました。
全体的に、バリのリゾート・ウエディングはハワイやグアムよりも日本人には合っている気がしました。
いわゆる「アジアン・リゾート」として沖縄に近い感じです。ちなみに、バリも沖縄も、神と人の交流が盛んなスピリチュアルな島として知られています。
●風葬の村に行く
バリ島北部のバトゥール湖は世界遺産ですが、その湖畔にひっそりと佇むトルニャン村にも行きました。この村は三方を断崖絶壁に囲まれ、残りの一方を湖に遮られており、村への交通手段は対岸からのボートしかありません。この「陸の孤島」では、「風葬」によって死者を弔っています。
「風葬」とは、遺体を野ざらしのまま朽ち果てさせる葬法です。かつては、沖縄や奄美諸島をはじめとする日本にもその風習が残されていました。
トルニャン村の墓地には1本の大木がありました。「タルムニャン」と呼ばれるこの香木で、この木が香りを発することで、遺体から放たれる屍臭をかき消しているそうです。確かに、屍臭は感じませんでしたが、香木の香りも特に感じませんでした。おびただしい数の頭蓋骨とともに、死後1週間ほどの遺体もあり、わたしたちは合掌しました。
●葬儀は人の道
風葬の村を訪れて、まさに「メメント・モリ(死を想え)」といった印象を受けました。
バリ島の中でも、トルニャン村はけっして豊かな村ではありません。おそらくは風葬の習慣が残っているのは経済的な事情もあるように思えますが、風葬は1人あたり日本円で60万円ぐらいかかるそうです。どんなに貧しい人でも亡くなれば、村から60万円の葬儀を出してあげるわけです。もちろん、村にあるヒンドゥー教の寺院において葬送儀礼が執り行なわれます。
わたしは、葬儀とは人類普遍の「人の道」であることを再認識しました。儀式も行わずに遺灰を火葬場に捨ててくるという日本の「0葬」は、どう考えても異常です。
じつは、バリ島といえば、葬儀が有名です。
しかし、それは風葬ではなく火葬のほうです。バリ島は、文化人類学者や宗教学者たちが熱いまなざしを注ぐ島として有名ですが、火葬による死者の葬いが、伝統的な生活の中で人々の最大の関心事であり、愉しみにさえなっていることで知られます。
●祭りとしての火葬
哲学者の中村雄二郎氏は、バリ島の演劇の主人公として人々とともに生きている魔女ランダを通じて、近代社会を根源的に問い直す「演劇的知」を追及した著書『魔女ランダ考』に次のように書いている。
「まず、バリ島の人々にとって、死者の火葬の儀式は愉しい祭りであって、悲しい行事ではない。それというのも、火葬を行なうことが彼らのもっとも神聖な義務の遂行になるからである。火葬によって死者の魂は解放され天上の世界に達して、より良い存在として生まれ変わることができるようになる。つまり、死と火葬とは、現世から来世の間に挟まれた、天国への魂の旅立ちなのである」
バリ島に見られる葬儀のあり方は、現在のわれわれ日本人の「死」の通念を改めて考えさせるだけのものを持っている。バリ島の伝統的な火葬儀礼は、特にそれが国王の死に際して行なわれた場合には大がかりなものになり、国家にとって特別な意味を持ったものになった。
●葬儀とは直接芸術
バリ島では火葬による死者の葬いが、伝統的な生活の中で人々の最大の関心事であり、愉しみにさえなっています。
バリ島の王国(ヌガラ)は「劇場国家」であるといわれます。ヌガラとは19世紀中葉にオランダが植民地化するまでバリ島に栄えたいくつかの小王国を指しますが、ヌガラが特別に関心の対象となるのは、その祭儀性にありました。
バリ島では何らかの祭儀の行われる日が「実」の日であり、それ以外の日常の日は「虚」であるという考え方が支配していますが、儀礼こそが、それも葬礼こそがヌガラを成立させる条件となっています。
さて、そのように葬儀を重んじるバリ島において、わたしは「芸術とは何か」について考えました。芸術とは、魂を天上に飛ばすことだと思います。人は芸術作品に触れて感動したとき、魂が天上に一瞬だけ飛ぶのではないでしょうか。
絵画、彫刻、文学、映画、演劇、舞踊といった芸術の諸ジャンルは、さまざまな中継点を経て魂を天上に導くという、いわば間接芸術です。楽聖ベートーヴェンは「音楽は直接芸術である」と述べましたが、わたしは葬儀こそは真の直接芸術だと思います。
なぜなら、葬儀とは「送魂」という行為そのものだからです。聖なるガムランの調べを聴きながら、そんなことを考えました。
弔いは国境超へし人の道
人の魂 天に送らん 庸軒