第40回
一条真也
「小倉に小笠原流あり!」

 

 今月、小倉の松柏園ホテルで小笠原家茶道古流の「立居振舞い・茶道教室」が始まった。
 古流とは豊前小倉藩に伝わる茶道の流派である。後に侘び茶を完成させた千利休よりも古い起源という意味で、後世になって「古流」と名付けられたと考えられている。
 流祖の古市胤栄と古市澄胤の兄弟は大和国の人で、村田珠光の高弟である。珠光といえば、千利休の師と言われる武野紹鴎より古い室町時代中期の茶人で「侘び茶」の創始者と目されている人物だ。
 利休は「術は紹鴎、道は珠光より」とも説いており、侘び茶を完成させた利休にとっても珠光は心の師だ。
 江戸時代初期、豊前小倉藩初代藩主である小笠原忠真が古市澄胤の後裔である古市了和を茶堂として召し抱え、小笠原家古流と称するようになった。
 小笠原家といえば、礼法の家元として有名だ。父が礼法の師範であったこともあり、小倉生まれのわたしは幼少期より小笠原流礼法第32代宗家の小笠原忠統先生に師事し、後に免許皆伝を許された。
 小笠原流礼法の歴史は鎌倉時代にまでさかのぼり、武家作法として始まり、発展していった。小笠原家では、弓馬の法を代々嫡子に伝えたが、室町時代の7代目貞宗のときになって、礼法が加えられ、弓・馬・礼の三法をもって小笠原の現代へとつながる伝統の基盤ができあがった。
 貞宗は南北朝時代に後醍醐天皇に仕え、「小笠原は日本武士の定式たるべし」という御手判を賜り、合わせて家紋として「王」の字の紋を賜ったが、これが小笠原家の三階菱だ。
 また、18代の貞慶は、「三議一統」後に加えられた記述をし、武家礼法を「小笠原礼書七冊」としてまとめた。貞慶の子である秀政は、大阪夏の陣にて長男と共に戦死するが、次男の忠真がその功により、松本から播州明石11万石を経て、豊前小倉15万石の領主となった。ここから、小倉の地と小笠原家との深い縁が始まる。
 小笠原流礼法は一日にして成ったものではない。連綿とした歴史の流れの中で形づくられて、今日まで伝えられてきたものである。それは、多くの人々がその合理性を認めていたからだろう。
 現代社会においても、人と人とのコミュニケーションを円滑に進めるためには「礼儀作法・マナー」は大切なツールになる。人々のココロをカタチに表した礼儀作法は、わたしたち日本人の大切な文化のひとつだ。
 この素晴らしい文化を絶やすことなく後世に伝えていくため、わたしは今後も小倉の地で小笠原流を広めていきたいと思う。