みなさんに夢はありますか? 最近、わたしの大きな夢がかないました。日ごろより私淑する稲盛財団の稲盛和夫理事長にお会いしたのです。わたしは「京都大学こころの未来研究センター」連携研究員を務めているのですが、先日、同センター主催の「京都こころ会議」シンポジウムに参加しました。 冒頭、稲盛理事長が祝辞を述べられることになっていました。そして、来場された稲盛理事長を同センターの教授である鎌田東二先生が、シンポジウムの開始前に紹介して下さったのです。
わたしは、つねづね稲盛理事長を尊敬申し上げています。しかし、じつは実際にお会いするのはこれが初めてでした。稲盛理事長とわたしは2012年に第2回「孔子文化賞」を同時受賞させていただいています。でも、授賞式には弟の稲盛豊氏(稲盛財団専務理事)が代理で出席され、ご本人とお会いすることは叶いませんでした。
それを長年親しくさせていただいている鎌田先生が名刺交換の機会を与えて下さったのです。稲盛理事長はわたしのことをご存知で、まことに感激いたしました。稲盛理事長からも丁重にお名刺を頂戴しました。この名刺はわたしの宝物です。日本経済界最高のリーダーの一人であるにもかかわらず、稲盛理事長は腰の低い素晴らしい人格者でした。わたしは、胸いっぱいで「心より尊敬申し上げております。御著書はすべて拝読させていただきました。今日は御挨拶させていただき、まことに光栄でございます」と申し上げると、稲盛理事長はニッコリと微笑んで下さいました。
わたしは憧れの方にお会いできて、本当に感激しました。孟子が会うことのなかった孔子に私淑(この言葉の出典は『孟子』です)したように、平田篤胤が会うことのなかった本居宣長に夢の中で弟子入りしたように、わたしも稲盛理事長とお会いする機会がないのかと諦めていました。その諦めかけていた夢をかなえて下さったのは鎌田東二先生でした。まさに、鎌田先生こそは「役の行者」ならぬ最高の「縁の行者」でした。
わたしは私淑する渋沢栄一翁や松下幸之助翁や出光佐三翁にはお会いすることはできませんでしたが、稲盛和夫翁にはお会いできました。まさに本居宣長が賀茂真淵と運命の邂逅を果たした「松坂の一夜」ならぬ「京都の朝」でした。まことに感無量でありました。
考えてみれば、ここ最近、わたしの夢が立て続けに実現してきています。稲盛理事長とともに最も尊敬申し上げていた渡部昇一先生にお会いし、「世界一」とされる先生の書斎や書庫を拝見させていただいたばかりか、渡部先生と対談本である『永遠の知的生活』(実業之日本社)まで出させていただきました。孔子文化賞を受賞すること、大学の客員教授になることなどの夢も叶いました。また、この日経電子版にコラムを連載することなども夢の一つでしたが、これも叶いました。
"If you can dream it,you can do it."
この言葉は、かのウォルト・ディズニーによるもので、わたしの座右の銘の一つです。人間が夢見ることで、不可能なことなど一つもないのです。逆に言うなら、本当に実現できないことは、人間は初めから夢を見れないようになっているのです。
そして、わたしにとっての「夢」とは「志」というものに通じています。結局、リーダーにとって最も大切なものは「志」であると思います。志とは心がめざす方向、つまり心のベクトルです。行き先のわからない船や飛行機には誰も乗らないように、心の行き先が定まっていないような者には、誰も共感しませんし、ましてや絶対について行こうとはしません。
志に生きる者を志士と呼びます。幕末の志士たちはみな、青雲の志を抱いていました。吉田松陰は、人生において最も基本となる大切なものは、志を立てることだと日頃から門下生たちに説いていました。そして、志の何たるかについて、こう説きました。
「志というものは、国家国民のことを憂いて、一点の私心もないものである。その志に誤りがないことを自ら確信すれば、天地、祖先に対して少しもおそれることはない。天下後世に対しても恥じるところはない」
わたしは、志というのは何よりも「無私」であってこそ、その呼び名に値するのであると強調したいです。松陰の言葉に「志なき者は、虫(無志)である」というのがありますが、これをもじれば、「志ある者は、無私である」と言えるでしょう。
平たく言えば、「自分が幸せになりたい」というのは夢であり、「世の多くの人々を幸せにしたい」というのが志です。夢は私、志は公に通じているのです。自分ではなく、世の多くの人々。「幸せになりたい」ではなく「幸せにしたい」、この違いが重要なのです。
真の志は、あくまでも世のため人のために立てるものなのであり、「志」に通じている「夢」ほど多くの人々が応援してくれるために叶いやすいのでしょう。ちなみに、わたしは無縁社会を克服して、有縁社会を再生するという志を立てています。