第9回
一条真也
「戦後70年と永遠葬」
このたび、最新刊となる著書『永遠葬』(現代書林)を上梓しました。
いま、「0葬」というものが話題になっています。通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させて焼却する「直葬」をさらに進めた形で、遺体を完全に焼いた後、遺灰を持ち帰らずに捨ててくるのが「0葬」です。
しかし、わたしは、葬儀を抜きにして遺体を焼く行為など絶対に認めません。かつて、ナチスやオウムが葬送儀礼を行わずに遺体を焼却しました。
ナチスはガス室で殺したユダヤ人を、オウムは逃亡を図った元信者を焼いたのです。そして、イスラム国はなんと生きた人間をそのまま焼き殺しました。
わたしたち日本人は、「直葬」や「0葬」といったものがいかに危険な思想を含んでいるかを知らなければなりません。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は「人間尊重」に最も反するものであり、ナチス・オウム・イスラム国の闇に通じているのです。
わたしは、葬儀という営みは人類にとって必要なものであると信じています。故人の魂を送ることはもちろんですが、葬儀は残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。
もし葬儀が行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きるでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。そう、葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。
葬儀によって、有限の存在である人は、無限の存在である仏となり、永遠の命を得ます。葬儀とはじつは「死」のセレモニーではなく、「不死」のセレモニーなのです。そう、人は永遠に生きるために葬儀を行うのです。この「永遠葬」こそが葬儀の本質です。
それにしても、この日本で「直葬」が流行するとは・・・さらには、あろうことか「0葬」などというものが発想されようとは!
「死者を軽んじる民族は滅びる」などと言われますが、なぜ日本人は、ここまで死者を軽んじる民族に落ちぶれてしまったのか?
そんな疑問が浮かぶとき、わたしは「日本民俗学の父」と呼ばれる柳田國男の名著『先祖の話』の内容を思い出します。
『先祖の話』は、敗戦の色濃い昭和20年春に書かれました。柳田は、連日の空襲警報を聞きながら、戦死した多くの若者の魂の行方を想って、『先祖の話』を書いたといいます。日本民俗学の父である柳田の祖先観の到達点であると言えるでしょう。
柳田がもっとも危惧し恐れたのは、敗戦後の日本社会の変遷でした。具体的に言えば、明治維新以後の急速な近代化に加え、日本史上初めての敗戦によって、日本人の「こころ」が分断されてズタズタになることでした。柳田の危惧は、それから60年以上を経て、現実のものとなりました。
今年は終戦70周年の年です。日本人だけでじつに310万人もの方々が亡くなられた、あの悪夢のような戦争が終わって70年目の節目なのです。今年こそは、日本人が「死者を忘れてはいけない」「死者を軽んじてはいけない」ということを思い知る年であると思います。
いま、柳田國男のメッセージを再びとらえ直し、「血縁」や「地縁」の重要性を訴え、有縁社会を再生する必要がある。わたしは、そのように痛感しています。