2015
08
株式会社サンレー
代表取締役社長
佐久間庸和
「戦後70年を迎え
死者を弔うことの意味を知る」
●戦後70年を迎えて
8月15日、終戦70周年を迎えます。じつに日本人だけで310万人もの方々が亡くなった、あの悪夢のような戦争から70年という大きな節目を迎えたのです。
3月20日には、地下鉄サリン事件から20周年を迎えました。ということは、いわゆるオウム真理教事件はちょうど戦後50年の年に起こったことになります。
わたしは「日本民俗学の父」と呼ばれる柳田國男の名著『先祖の話』の内容を思い出します。『先祖の話』は、敗戦の色濃い昭和20年春に書かれました。柳田國男は、連日の空襲警報を聞きながら、戦死した多くの若者の魂の行方を想って、『先祖の話』を書いたといいます。
同書は柳田民俗学における祖先観の到達点だとされますが、彼がもっとも危惧し恐れたのは、敗戦後の日本社会の変遷でした。具体的に言えば、明治維新以後の急速な近代化に加えて、日本史上初めてとなる敗戦によって、日本人の「こころ」が分断されてズタズタになることだったのです。
●無縁社会の到来
柳田國男の危惧は、それから半世紀以上を経て、不幸にも現実のものとなりました。
日本人の孤独死や無縁死が激増し、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」も増えています。家族の絆はドロドロに溶け出し、「血縁」も「地縁」もなくなりつつあります。
『葬式は、要らない』などという本がベストセラーになり、日本社会は「無縁社会」と呼ばれるまでになってしまいました。この「無縁社会」の到来こそ、柳田國男がもっとも恐れていたものだったと思います。彼は「日本人が先祖供養を忘れてしまえば、いま散っている若い命を誰が供養するのか」という悲痛な想いを抱いていたのです。
まさに柳田國男が『先祖の話』を書き、日本が敗戦した50年後にオウム真理教事件が起こりました。麻原彰晃は「ナチス」に異様な関心を抱いており、自身をヒトラーに重ね合わせていたことは有名です。
●葬儀なき遺体焼却
ナチスやオウムは、かつて葬送儀礼を行わずに遺体を焼却しました。
ナチスはガス室で殺したユダヤ人を、オウムは逃亡を図った元信者を焼いたのです。
今年になって、「イスラム国」と日本で呼ばれる過激派集団「ISIL」が人質にしていたヨルダン人パイロットのモアズ・カサスベ中尉を焼き殺しました。わたしは、湯川遥菜さんや後藤健二さんの斬首刑以上の衝撃を受けました。
わたしは、葬儀を抜きにして遺体を焼く行為を絶対に認めません。しかし、イスラム国はなんと生きた人間をそのまま焼き殺したのです。このことを知った瞬間、わたしの中で、イスラム国の評価が定まりました。
現在の日本では、通夜も告別式もせずに火葬場に直行するという「直葬」が増えつつあります。あるいは遺体を完全に焼却し、遺灰を火葬場に捨ててくる「0葬」といったものまで注目されています。
しかしながら、「直葬」や「0葬」がいかに危険な思想を孕(はら)んでいるかを知らなければなりません。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は「礼」すなわち「人間尊重」に最も反するものであり、ナチス・オウム・イスラム国の闇に通じているのです。
●『永遠葬』の出版
20年前の一連のオウム真理教事件の後、日本人は一気に「宗教」を恐れるようになり、「葬儀」への関心も弱くなっていきました。もともと「団塊の世代」の特色の一つとして宗教嫌いがありましたが、それが日本人全体に波及したように思います。
それにしても、なぜ日本人は、ここまで「死者を軽んじる」民族に落ちぶれてしまったのでしょうか?
このたび、一条真也として書いた著書『永遠葬』(現代書林)を上梓しました。サブタイトルは「想いは続く」です。
葬儀によって、有限の存在である"人"は、無限の存在である"仏"となり、永遠の命を得ます。これが「成仏」です。
葬儀とは、じつは「死」のセレモニーではなく、「不死」のセレモニーなのです。そう、人は永遠に生きるために葬儀を行うのです。「永遠」こそが葬儀の最大のコンセプトであり、わたしはそれを「0葬」に対抗する意味で「永遠葬」と名づけたのです。
●『唯葬論』の出版
さらに、わたしは『唯葬論』(三五館)を上梓しました。サブタイトルは「なぜ人間は死者を想うのか」です。わたしのこれまでの思索や活動の集大成となる本です。
わたしは、人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。
約7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化しました。
その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行いました。つまり「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのです。
葬儀は人類の存在基盤です。
葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。
葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。そして、死者を弔う行為は「人の道」そのものなのです。
大戦(いくさ)より時を重ねて七十年(ななととせ)
人の道をば今こそ知らん 庸軒