第37回
佐久間庸和
「長崎の鐘を鳴らせば」

 

 お盆をピークとする日本の8月は「死者を思う季節」だが、今年は終戦70年でもあり、日本中の人々が平和への思いをはせた。
 わたしにとっては、9日の「長崎原爆の日」が特別の日となった。70年前のこの日、広島に続いて長崎に落とされた原爆は、小倉に落とされるはずだった。落ちていれば、小倉の中心部に住んでいた母の命はなく、わたしも生まれていなかった。
 今年の8月9日、わたしは小倉の勝山公園で行われた式典に参加した。例年この日に公園内の原爆犠牲者慰霊平和祈念碑前において、「北九州市原爆被害者の会」の主催で祈念式典が開催される。
 70年目の節目となる今年、民間企業の代表として1人だけわたしが来賓としての招待を受けた。もう10年以上も、新聞各紙に「小倉に落ちるはずだった原爆」「長崎にこころからの祈りを」のメッセージ広告を掲載し続け、啓蒙に努めてきたことが認められたのではないかと思っている。
 式典の最後に、わたしは献花用の花を受け取った。その花を心を込めて献じ、原爆犠牲者慰霊平和祈念碑に水を丁寧にかけ、礼服のポケットから数珠を取り出して犠牲者の御霊に対して心からの祈りをささげた。
 そして、わたしは万感の思いを込めて「長崎の鐘」を鳴らした。その鐘の音は、魂に響き渡るような気がした。わたしは「長崎の鐘を鳴らせば この命いま在る奇跡 涙こぼるる」という歌を詠んだ。
 灌水用の水は、「長崎の水」「北九州の水」「広島の水」を合わせたものであった。水が入ったポリバケツを見て、「ヒロシマナガサキ」という映画の一場面を思い出した。
 ある被爆者が「きのこ雲というのはうそです。近くから見たら、あれは雲などではなく、火の柱そのものでした」と語ったのである。
 火の柱によって焼かれた多くの人々は、焼けただれた皮膚を垂らしたまま逃げまどい、さながら地獄そのものの光景の中で、最後に「水を・・・・・・」と言って死んでいった。
 鉄砲にせよ、大砲にせよ、ミサイルにせよ、そして核にせよ、戦争のテクノロジーとは常に「火」のテクノロジーであった。沖縄戦では火炎放射器という兵器も登場した。地獄と同じく、戦争の本質は火なのだと思う。
 戦争の本質が火なら、平和の本質は水ではないだろうか。ふと、人類の四大文明の発祥である「チグリス・ユーフラテス河の水」「ナイル河の水」「インダス河の水」「黄河の水」を合わせた世界平和のセレモニーというものを思いついた。
 この式典、いつか必ず実現してみたい。