8月になりました。日本人にとって慰霊と鎮魂の季節です。というのも、6日の広島原爆の日、9日の長崎原爆の日、12日の御巣鷹山の日航機墜落事故の日、そして15日の終戦の日というふうに、3日置きに日本人にとって意味のある日が訪れるからです。そして、それはまさに「お盆」の時期と重なります。
「盆と正月」という言葉が今でも残っているくらい、「お盆」は過去の日本人にとっての楽しい行事でした。年に一度だけ、亡くなった先祖たちの霊が子孫の家に戻ってくると考えたからです。
日本人は、古来、先祖の霊によって守られることによって初めて幸福な生活を送ることができると考えていました。その先祖に対する感謝の気持ちが供養という形で表わされたものが「お盆」です。年に一度帰ってくるという先祖を迎えるために迎え火を燃やし、各家庭にある仏壇でおもてなしをしてから、再び送り火によってあの世に帰っていただこうという風習は、現在でも盛んです。
同じことは春秋の彼岸についても言えますが、この場合、先祖の霊が戻ってくるというよりも、先祖の霊が眠っていると信じられている墓地に出かけて行き、供花・供物・読経・焼香などによって供養するのです。
それでは、なぜこのような形で先祖を供養するかというと、もともと二つの相反する感情からはじまったと思われます。一つは死者の霊魂に対する恐怖であり、もう一つは死者に対する追慕です。やがて二つの感情が一つにまとまっていきます。死者の霊魂は、死後一定の期間を経過すると、この世におけるケガレが浄化され、「カミ」や「ホトケ」となって子孫を守ってくれるという祖霊になるのです。
日本人の歴史の中で、神道の「先祖祭り」が仏教の「お盆」へと継承されました。そこで、生きている自分たちを守ってくれる先祖を供養することは、感謝や報恩の表現と理解されてくるわけです。
しかし、個々の死者に対する葬式や法事の場合は、死霊に対する感謝や報恩といった意味よりも、追善・回向・供養といった意味のほうがはるかに強いと思います。すなわち、死者のあの世での幸福を願う追善と、子孫である自分たちを守ってくれていることに対する感謝とにまとめられるのです。
どんな人間にも必ず先祖はいます。しかも、その数は無数といってもよいでしょう。これら無数の先祖たちの血が、たとえそれがどんなに薄くなっていようとも、必ず子孫の一人である自分の血液の中に流れているのです。
「おかげさま」という言葉で示される日本人の感謝の感情の中には、自分という人間を自分であらしめてくれた直接的かつ間接的な原因のすべてが含まれています。
そして、その中でも特に強く意識しているのが、自分という人間がこの世に生まれる原因となった「ご先祖さま」なのです。
しかし、大切なご先祖さまがせっかく往いて再生した浄土から、日本人はどうして厭離すべきこの穢土へ先祖の霊たちを迎え、また送り出さなければならないのでしょうか。これはどう考えても、日本人がやっていることと仏教の教えとの間に矛盾があると言わなければなりません。たとえ宗教的に説明がしにくくても、日本人の「こころ」がお盆を必要としていることに変わりはありません。
日本人の葬儀のほとんどは仏式葬儀です。よく「葬式仏教」とか「先祖供養仏教」とか言われますが、これまでずっと日本仏教は日本人、それも一般庶民の宗教的欲求を満たしてきたことを忘れてはなりません。その宗教的欲求とは、自身の「死後の安心」であり、先祖をはじめとした「死者の供養」に尽きるでしょう。
わたしは「葬式仏教」とはグリーフケアの文化装置であったと考えています。そのことを最新刊の『永遠葬』(現代書林)や『唯葬論』(三五館)にも書きました。
2011年の夏、東日本大震災の被災地が初盆を迎えました。地震や津波の犠牲者の「初盆」でしたが、生き残った被災者の心のケアという側面から見ても非常に重要でした。多くの被災者がこの初盆を心待ちにしていたのです。
通夜、告別式、初七日、四十九日......と続く、日本仏教における一連の死者儀礼の流れにおいて、初盆は1つのクライマックスでもあります。日本における最大のグリーフケア・システムと言ってもよいかもしれません。
そして、次の大事なことを忘れてはなりません。基本的に葬儀がなければ、初盆はないということです。葬儀があって、初七日や四十九日があって、初盆が来るのです。小学校に入学しなければ運動会や修学旅行を経験できないように、葬儀をきちんと行わなければお盆というのは来ないのです。
もちろん、それは立派な葬儀である必要はありません。セレモニーホールや祭壇もあるに越したことはありませんが、なくても別に構いません。大切なのは、死者を悼み、送るという「こころ」であり、葬儀という「かたち」です。
日本仏教の本質は「グリーフケア仏教」なのです。お盆の時期は、ぜひご先祖さまをお迎えして、こころ豊かな時間を過ごしていただきたいと思います。