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一条真也
「『唯葬論』とは何か」
こんにちは、一条真也です。
『永遠葬-想(おも)いは続く』(現代書林)に続いて、わたしの最新刊『唯葬論(ゆいそうろん)』(三五館)が刊行されました。「なぜ人間は死者を想うのか」というサブタイトルがついており、帯には「問われるべきは『死』ではなく『葬』である!」と大書され、「-途方もない思想がここに誕生-」「戦後70年記念出版」と書かれています。わたしのこれまでの活動の集大成となる本です。
■「死」と「葬」の本質
宇宙論/人間論/文明論/文化論/神話論/哲学論/芸術論/宗教論/他界論/臨死論/怪談論/幽霊論/死者論/先祖論/供養論/交霊論/悲嘆論/葬儀論という18の論考から「死」と「葬」の本質を求めました。
わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であると思っています。約7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされます。世界各地の埋葬が行われた遺跡からは、さまざまな事実が明らかになっています。
「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉がありますが、確かに埋葬という行為には人類の本質が隠されているといえるでしょう。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できます。
わたしは人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。世の中には「唯物論」「唯心論」をはじめ、岸田秀氏が唱えた「唯幻論」、養老孟司氏が唱えた「唯脳論」などがありますが、わたしは本書で「唯葬論」というものを提唱します。
結局、「唯○論」というのは、すべて「世界をどう見るか」という世界観、「人間とは何か」という人間観に関わっています。わたしは、「ホモ・フューネラル」という言葉に表現されるように人間とは「葬儀をするヒト」であり、人間のすべての営みは「葬」というコンセプトに集約されると考えます。
■冠婚葬祭ほど凄いものはない
カタチにはチカラがあります。カタチとは儀式のことです。わたしは冠婚葬祭会社を経営していますが、冠婚葬祭ほど凄(すご)いものはないと痛感することが多いです。というのも、冠婚葬祭というものがなかったら、人類はとうの昔に滅亡していたのではないかと思うのです。
わが社の社名である「サンレー」には「産霊(むすび)」という意味があります。神道と関わりの深い言葉ですが、新郎新婦という2つの「いのち」の結びつきによって、子供という新しい「いのち」を産むということです。「むすび」によって生まれるものこそ、「むすこ」であり、「むすめ」です。結婚式の存在によって、人類は綿々と続いてきたと言ってよいでしょう。
最期のセレモニーである葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供など大切な家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。
■問われるべきは「葬」
オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。
死の事実を露骨に突きつけることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。言うまでもありませんが、人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、ことさら言う必要などありません。
最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということなのです。問われるべきは「死」でなく「葬」なのです。よって、本書のタイトルは『唯死論』ではなく『唯葬論』としました。
ちなみに「宇宙論」からはじまって「葬儀論」へと至る章立ては、2012年に逝去した偉大な思想家である吉本隆明氏の名著『共同幻想論』(角川文庫ソフィア)をイメージしました。同書は、その後の唯幻論や唯脳論の母体ともなった画期的な書物でした。不遜を承知で言えば、わたしは『唯葬論』を『共同幻想論』へのアンサーブックとして書きました。
以前、わたしは『魂をデザインする』(国書刊行会)という本で、2013年に逝去した文化人類学者の山口昌男氏と対談したことがあります。その時、山口氏は「葬式は無駄なこと。しかし、人類は無駄をなくすことはないよ」と言われました。弔いをやめれば人が人でなくなるのです。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。
吉本氏や山口氏をはじめ、本書は多くの死者たちのサポートによって書かれました。わたしは、本書を書きながら「生者は死者によって支えられている」と改めて痛感した次第です。
未知の超高齢社会を迎える今、万人が「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」を持つことが求められます。そのためには「生者と死者との豊かな関係」が不可欠であり、「人生の卒業式」としての葬儀に対する前向きなイメージと姿勢が重要となります。葬儀を行うことをやめれば、わたしたちは自身の未来をも放棄することになるのではないでしょうか。
今年は終戦70周年の年です。日本人だけでじつに310万人もの方々が亡くなった、あの悪夢のような戦争が終わって70年目の大きな節目です。今年こそは、日本人が「死者を忘れてはいけない」「死者を軽んじてはいけない」ということを思い知る年であり、『唯葬論』をなんとか上梓できて感無量です。
大仰な言い方と思われるかもしれませんが、わたしは『唯葬論』を書くために生まれてきたように思えてなりません。日本人の未来はもちろん、人類の未来のために書きました。この本を読まれた方々が、葬儀という営みが、いかに社会にとって、共同体にとって、民族にとって、そして生者と死者にとって必要不可欠であるかをご理解いただければ幸いです。