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一条真也
「世界平和パゴダ戦没者慰霊祭

 〜すべての戦没者の冥福を祈り」

 こんにちは、一条真也です。
 北九州市門司区の和布刈公園には、日本で唯一のビルマ(ミャンマー)式寺院である「世界平和パゴダ」があります。第2次世界大戦後、ビルマ政府仏教会と日本の有志によって昭和33年(1958年)に「世界平和の祈念」と「戦没者の慰霊」を目的に建立されました。
 戦時中は門司港から大量の兵士が出兵しましたが、その多くは再び祖国の地を踏むことができませんでした。特に、弾薬はおろか食料まで尽き果てたというビルマ戦線においては、派兵された日本兵約30万人の内、約18万人が戦死されるという激戦地でした。映画化もされた竹山道雄の名作『ビルマの竪琴』は、このビルマ戦線の物語です。
 そこで、戦後にビルマ式寺院である「世界平和パゴダ」を建立して、その霊を慰めようとしたわけです。わたしが経営する冠婚葬祭会社サンレーでは、この世界平和パゴダの支援をさせていただいています。
 わたしの52回目の誕生日にあたる5月10日から14日にかけて、世界平和パゴダではミャンマー僧による「パターン祭」が行われました。
 「パターン祭」のパターン(発趣論)とは、7つある「論蔵(アビダンマ)」の最後の教えです。当時5月のある夜明け前にブッダは一切知者になられ(悟りを開かれ)、その後菩提樹の北西において結跏跌坐(けっかふざ)のまま論蔵を説かれとされていますが、パターンは、その最後に考察された最も尊い教えで、ブッダがパターンを考察されているとき、仏陀の身体より、種々の輝きが放たれたと言われています。主な内容は、『縁起』(原因と結果の教え)で二十四縁起(ナセーレーピッショ)として唱えられます。

■5日間96時間かけ経典唱えあげる

 世界平和パゴダのパターン祭では、第2次世界大戦戦没者の慰霊と世界平和を祈るため、ミャンマーよりこのために来日した僧侶約20名が、5日間96時間をかけてパターン経典の全てを唱えあげました。
 「パターン祭」の締めくくりとして、14日には戦没者慰霊合同参拝が行われました。わたしも、朝一番で合同参拝に参加し、戦没者の御霊に祈りを捧げました。今年は終戦70周年の年です。日本人だけでじつに310万人もの方々が亡くなられた、あの悪夢のような戦争が終わって70年目の節目なのです。今年こそは、日本人が「死者を忘れてはいけない」「死者を軽んじてはいけない」ということを思い知る年であると思います。
 わたしは太平洋戦争において最も悲惨だったともいわれるビルマ戦の犠牲者の方々をはじめ、すべての戦没者に対して心からの祈りを捧げました。日本人の犠牲者以外のすべての国の犠牲者に対しても冥福を祈りつつ、心の底から「戦争の根絶」と「世界平和の実現」を祈念しました。世界平和パゴダは諸事情から2012年に休館されていましたが、多くの方々の尽力で再開することができました。終戦70周年の戦没者供養に間に合って、本当に良かった!
 ミャンマーの高僧たちに供養されて、故郷を遠く離れたビルマの地で散っていかれた英霊たちも、さぞ喜ばれているのではないでしょうか。そう思うと、わたしの胸は熱くなりました。

■杜撰な作戦により多くの犠牲者

 ビルマ戦線とは、太平洋戦争の局面の1つです。
 イギリス領ビルマをめぐって、日本軍・ビルマ国民軍・インド国民軍と、イギリス軍・アメリカ軍・中華民国国民党軍とが戦いました。戦いは1941年の開戦直後から始まり、45年の終戦直前まで続きました。
 日本軍はインパール作戦(日本側作戦名:ウ号作戦)を実施してその機先を制しようと試みました。これは、44年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルート(英米などによる国民党支援ルート)の遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことです。補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫しました。
 この作戦は当初から無謀な作戦であると反対意見が多かったにもかかわらず、牟田口軍司令官によって強引に進められ、戦闘中に師団司令官が独自に撤退を決めたり、更迭されたりするなど特異な事態が出現します。また、補給が困難な山岳地帯を越えての進撃あり、空軍も非力だったため、惨憺(さんたん)たる失敗に終わったのです。このインパール作戦は、戦後も長きにわたって批判されました。
 連合軍は45年の終戦までにビルマのほぼ全土を奪回しました。勝利した連合軍はそれぞれの目的を達成しましたが、最終的にはイギリスはアジアから撤退し、アメリカも中国における足場を失います。そして、ビルマは48年に独立を達成しました。

■喜ぶビルマ人「日本人は仏様だ!」

 ビルマ戦線から帰還された三木恭一氏のお話によれば、ビルマ行軍中、乾期を迎えていたビルマは想像を絶する暑さだったそうです。付近の村から多くの男女が飛び出してきて、瓶に入れた水をサービスするなど、ビルマ人の素朴な国民性に日本軍は心惹かれました。若者の中には、兵隊と一緒に戦闘をするので連れて行ってくれ懇願する者もいたそうです。
 また、日本兵たちは「舗装された道路を歩いて良いか」とビルマ人に訪ねられたといいます。三木氏らは不思議に思いましたが、「この道路は誰が通行しても良いのだ」と伝えると、ビルマ人たちは非常に喜んで、「日本人は仏様だ!」などと話していたそうです。イギリスの支配下では舗装された道路はイギリス人専用で、現地住民はその一段下の未舗装道路しか使用することができませんでした。イギリスの支配下では、白人以外の有色人種に対しての差別が非常に厳しかったようです。
 世界平和パゴダの戦没者慰霊合同参拝で、わたしはビルマ戦線で戦死された英霊のみならず、現地で亡くなられた日本人およびビルマ人、そしてイギリス人をはじめとした連合軍の兵士たち、ひいてはすべての国の戦没者の冥福を心から祈りました。死は最大の平等であり、死者に差別があってはなりません。それこそが「世界平和」につながる考えであると確信します。
 ビルマからの復員兵として、今日に至るまで世界平和パゴダの運営に人生を捧げてこられた三木恭一氏は97歳になられました。今もお元気です。三木氏は、どのようなお気持ちで戦後70年を迎えられるのでしょうか。