孔子が開いた儒教では、「人は老いるほど豊かになる」という思想を打ち出し、「敬老精神」というものが重視されました。その敬老精神が日本で最も大きく花開いたのが江戸時代でした。江戸は日本史に特筆すべき「好老社会」だったのです。
『日本書紀』によれば4世紀ごろに『論語』が伝えられ、その後、儒教は律令制のもと、大学寮で教えられた時期もありました。しかし本格的に日本に受け入れられたのは江戸時代、幕藩体制を支える思想的基盤に用いられるようになってからです。このとき、儒教は宗教としてではなく「儒学」という学問として受け入れられました。この儒学の考えが武士から町人にまで浸透し、江戸の人々は親孝行に努め、老人を大切にしました。
今年で没後400年になる徳川家康は江戸幕府を開く前に『論語』を愛読していたといいますが、75歳まで生きたことで知られています。今でいえば100歳ぐらいの長寿ですが、当時の平均寿命から考えると、老人として生きた時期がものすごく長かったわけです。ずっと老人であった家康は当然ながら「老い」というものに価値を置いたわけで、これがたとえば織田信長なら「老い」を重視などしなかったでしょう。
その家康は幕府の組織をつくるにあたり、将軍に次ぐ要職を「大老」とし、その次を「老中」としました。また各藩では、藩主に次いで「家老」が置かれました。家康がいかに「老」という文字を大事にしていたかがよくわかります。大老は絶大な権限をもっており、大老が一度決定したことは将軍といえども変えられなかったといいます。また、町人たちも古典落語でおなじみのように横丁の隠居を尊敬し、何かと知恵を借りました。江戸には、且那たちが40代の半ばから隠居してコミュニティの中心となる文化があったのです。
江戸という社会が「好老社会」であったのに対し、現代の日本は「好若社会」であると言えます。それはエネルギーやスピードや大きさに価値を置いた社会であり、つまり力や量の論理がまかりとおる社会であり、「若さ」の文化と言い換えることもできます。江戸にはエネルギーやスピードといった価値や、力や量といった論理はありませんでした。現代日本社会から見て、江戸という社会の特徴は「リサイクル」と「ボランティア」という2つの言葉で言い表わされます。その2つの言葉がいま、注目されているのは、日本がかつて江戸時代に持っていた循環型の暮らしや、相互扶助の豊かな伝統が失われたことを逆に示しているのです。江戸の暮らしは自然のリズムにそって流れていましたし、人もモノもゆっくりと動いていました。人がその一生を通じて蓄えた知恵や技能がいつまでも役に立ったのです。
そうした社会には年寄りの役割というものが厳然としてありましたし、社会そのものも、年寄りのようにスローな動きをしていました。若さが物を言うスポーツや芸能などなく、今でいうところの情報量も、若者よりも老人の方が豊かでした。また固定した社会は競争社会ではなく、のんびりしていました。
「先憂後楽」という語に集約されるように、江戸の人々にとっては、今日と違って人生の前半より後半に幸福がありました。若返りという思想はなかったのです。こうした「老い」が尊重された社会というのはまた、「若さ」をたたえる社会よりも、人にも自然にもやさしい社会であり、文化であったと言えるでしょう。
江戸時代にはすぐれた思想家が多く出ましたが、文芸というスタイルで「老い」の思想を唱えたのが井原西鶴でした。西鶴は『日本永代蔵』で現代に通じる「詰まりたる世」を生きていくさまざまな人間の生きざまを描きました。西鶴は、今日のように幸福を人生の前半に置くのではなく、人生の後半に置くという生き方がはっきりと説いたのです。そして、その「老いの楽しみ」を味わうためには、若いころからの心がけが大切であり、『日本永代蔵』は全編にわたって、その心がけを説いています。
また、江戸時代には「死光り」という言葉がありました。これは「死際が光る」、つまり死際が立派なこと、あるいは「死後に光る」、つまりは死後にほまれが残るという意味です。西鶴は『西鶴織留』で、「親でも子でも欲に極る世の中なれば、死跡に金銀を残すべし、是を死光りといふ」と述べており、死後に金銀を残し、お葬式を立派にする意味として使っています。
古代エジプトにしろ古代中国にしろ、その他にも多くの例があるのですが、古今東西の「好老社会」というのは「死」をネガティブにとらえず、お葬式を大事にするという共通点を持っています。「老い」の先には「死」があるのですから当然といえば当然ですが、江戸も例外ではありませんでした。江戸には『養生訓』の貝原益軒もいましたし、「病い」に対する考え方もしっかりしていました。江戸の人々は確固たる「生老病死」の思想を持っていたのです。