第85回
一条真也
『33年後のなんとなく、クリスタル』
田中康夫著(河出書房新社)
『なんとなく、クリスタル』は、大学生でモデルの「由利」を主人公に、バブル経済に沸く直前、1980年の東京を「皮膚感覚」で生きる若い女性たちを描いた小説です。
80年代以降の日本人の精神風土、そして「豊かさ」の終焉までを予見したとされている文藝賞受賞作ですが、この本が大きな話題になったのは作者が一橋大学の学生だったこと、そして、ブランド名や飲食店の名前などの膨大な「注」に彩られていたことです。
『なんとなく、クリスタル』が刊行されたとき、わたしは高校生でした。小倉高校で美術を教えておられた井上先生が「カタログ小説とでも呼ぶべき本が出た。東京を記号論的に描いているところが面白い。東京の大学に進学したら、読んでみるといい」と紹介してくれたのでした。
わたしは、この奇妙な小説に夢中になり、東京の大学に進学して六本木で生活を始めたとき、同書に登場する多くの店を訪れました。そのほとんどは今では消えており、時の流れを感じさせますが。
わたしは、高田馬場にある早稲田大学に通いながら、さまざまなショップやレストランやカフェやバーを開拓し、その成果を処女作『ハートフルに遊ぶ』に書いたのです。
実際、わたしは著者と同様に学生時代に書いたデビュー作が出版されたとあって、当時はよく「田中康夫の再来」といったニュアンスで雑誌などに紹介されました。非常になつかしい思い出です。
さて、本書『33年後のなんとなく、クリスタル』は、著者のキャラとどうしても重なる主人公ヤスオが、由利と再会し、かつての仲間たちと再会し、昔話をするというノスタルジックな展開になっています。
もっとも、最後には「この日本を、そして世界を良くしたい」というメッセージも発せられているのですが。最初は本書の随所に散りばめられている政治的なメッセージやエピソードが重たく感じたのですが、読み進むうちに、それは主人公たちの成熟を示すものであることがよくわかりました。
『なんとなく、クリスタル』のラストで、由利は「あと10年たったら、私はどうなっているんだろう」と思います。その彼女は、33年後に「『微力だけど無力じゃない』って言葉を信じたいの」とヤスオに語るのでした。いま、わたしの長女がちょうど33年前の「由利」と同い年で、東京に住んでいます。あと、10年たったら、彼女はどうなってる?
本書を一気に読み終えて少々センチメンタルになったわたしは、いつの日か、『30年後のハートフルに遊ぶ』を書いてみたい、と思いました。