はじめまして、一条真也と申します。
これから月に二回、みなさんに「人生の修め方」をテーマにお話しさせていただくことになりました。どうぞ、よろしくお願いいたします。
最初に簡単な自己紹介をさせていただくと、わたしは1963年(昭和38年)生まれで、現在51歳です。北九州市の出身なのですが、現在、同市は政令指定都市の中で最も65歳以上の高齢者が多いことで知られます。そんな街に住みながら、わたしはいつも「豊かな老い」について考えています。
また、わたしは冠婚葬祭の会社を経営しています。そこで長寿祝いや葬儀のお世話をさせていただきながら、また高齢者介護施設なども運営させていただきながら、人生を輝かせる方策について考え、具体的な提案を行ってきました。
■「終活」ではなく人生の集大成としての「修生活動」
現在、世の中には「終活ブーム」の風が吹き荒れています。多数の犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、「生が永遠ではないこと」そして必ず訪れる「人生の終焉」というものを考える機会が増えたことが原因とされます。
多くの高齢者の方々が、生前から葬儀やお墓の準備をされています。また、「終活」をテーマにしたセミナーやシンポジウムも花ざかりで、わたしも何度も出演させていただきました。いつの間にか、わたしは「終活」の専門家のように見られるようになり、ついには昨年、『決定版 終活入門~あなたの残りの人生を輝かせるための方策』(実業之日本社)という著書を上梓しました。おかげさまで好評をいただいているようです。
同書でも書いたのですが、ブームの中で、気になることもあります。「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人も会いました。
もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。正直に言って、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えています。そこで、「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しました。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。
よく考えれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」であるという見方ができます。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活だからです。そして、人生の集大成としての「修生活動」があるわけです。
かつての日本人は、「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」ということを知っていました。これは一種の覚悟です。いま、多くの日本人はこの「修める」覚悟を忘れてしまったように思えてなりません。
そもそも、老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。
わたしは、約10年前に『老福論~人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)という本を書きました。そこで「老いの豊かさ」について徹底的に論じました。
「老い」は人類にとって新しい価値です。自然的事実としての「老い」は昔からありましたし、社会的事実としての「老い」も、それぞれの時代、それぞれの社会にありました。しかし、「老い」の持つ意味、そして価値は、これまでとは格段に違ってきています。
■老いは「負い」にあらず 豊かに老いよう
これまで「老い」は否定的にとらえられがちでした。仏教では、生まれること、老いること、病むこと、そして死ぬこと、すなわち「生老病死」を人間にとっての苦悩とみなしています。現在では、生まれることが苦悩とは考えられなくなってきたにせよ、まだ老病死の苦悩が残ります。しかし、わたしたちが一個の生物である以上、老病死は避けることのできない現実です。それならば、いっそ老病死を苦悩ととらえない方が精神衛生上もよいし、人生を前向きに歩めるのではないでしょうか。すべては、気の持ちようなのです。 ずいぶん以前から「高齢化社会」と言われ、世界各国で高齢者が増えてきています。各国政府の対策の遅れもあって、人類そのものが「老い」を持て余しているのです。
特に日本は世界一高齢化が進んでいる国とされています。しかし、この国には、高齢化が進行することを否定的にとらえたり、高齢者が多いことを恥じる風潮があるようです。それゆえ、高齢者にとって「老い」は「負い」となっているのが現状です。
人は必ず老い、そして死にます。「老い」や「死」が不幸であれば、人生はそのまま不幸ということになります。これでは、はじめから負け戦に出るのと同じではないですか。
これから、わたしはみなさんが「豊かに老いる」そして「美しく人生を修める」ヒントのようなものを語っていきたいと思います。