言葉は、人生をも変えうる力を持っています。今回は、日本人なら誰でも知っている聖徳太子の言葉です。
聖徳太子は、574年に用明天皇の皇子として生まれました。本名は「厩戸皇子」ですが、多くの異名を持ちます。推古天皇の即位とともに皇太子となり、摂政として政治を行いました。内外の学問に通じていた太子は、仏教興隆に尽力し、多くの寺院を建立します。平安時代以降は仏教保護者としての太子自身が信仰の対象となり、親鸞などは「和国の教主」と呼びました。
しかし、太子は単なる仏教保護者ではありません。神道・仏教・儒教の三大宗教を平和的に編集し、「和」の国家構想を描いたのです。日本人の宗教感覚には、神道も仏教も儒教も入り込んでいます。よく「日本教」などとも呼ばれますが、その宗祖はブッダでも孔子もなく、やはり聖徳太子の名をあげなければなりません。
聖徳太子は、まさに宗教における偉大な編集者でした。儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的不安を実現する。すなわち心の部分を仏教で、社会の部分を儒教で、そして自然と人間の循環調停を神道が担う・・・・・・三つの宗教がそれぞれ平和分担するという「和」の宗教国家構想を説いたのです。
この聖徳太子の宗教における編集作業は日本人の精神的伝統となり、鎌倉時代に起こった武士道、江戸時代の商人思想である石門心学、そして今日にいたるまで日本人の生活習慣に根づいている冠婚葬祭など、さまざまな形で開花していきました。
その聖徳太子が行った最大の偉業は、604年に憲法十七条を発布したことです。儒教精神に基づく冠位十二階を制定した翌年のことであり、この憲法十七条には「和」の基本原理が述べられています。
普遍的人倫としての「和をもって貴しとなす」を説いた第一条以下、その多くは儒教思想に基づきますが、三宝(仏法僧)を敬うことを説く第二条などは仏教思想です。さらには法家思想などの影響も見られ、非常に融和的で特定のイデオロギーにとらわれるところがありません。
これが日本最初の憲法だったのです。そして、ここで説かれた大いなる「和」の精神が日本人の「こころ」の基本となりました。
その実在を疑う見方も多く、きわめて謎に満ちてはいますが、聖徳太子とは虚像も実像も超越した「和」のシンボルでした。