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一条真也
「『ハートフル』と『礼』」

 

 こんにちは、一条真也です。

 これから、「日本の心」や「心ゆたかな生き方」をテーマに月に2回、みなさまにコラムをお届けいたします。

 タイトルは「一条真也のハートフル・ライフ」です。

 「ハートフル」は、わたしの考え方を集約する言葉です。

 「ハートフル」はよく耳にする言葉で、日本中のさまざまな施設や組織やイベントのネーミングに使われています。北九州市のスローガンにもなりました。

 実は、わたしが四半世紀以上前に『ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)という本を書き、初めて生み出した言葉です。言葉を生んだ張本人ということで、いろいろな方々から「ハートフルって何ですか?」とよく聞かれます。 

 現代は、いわゆる高度情報社会です。IT社会とも呼ばれます。

 ITとはインフォメーション・テクノロジーの略ですが、重要なのはI(情報)であって、T(技術)ではありません。その情報にしても、技術、つまりコンピューターから出てくるものは過去のものにすぎません。情報社会の本当の主役はまだ現れていません。本当の主役、本当の情報とは何でしょうか。


■よい心の働きを表現する言葉


 情報の「情」とは、心の動きに他なりません。本来の情報とは、心の動きを報(しら)せることなのです。だから真の情報社会とは、心の社会なのです。

 そこで「ハートフル」が出てきます。「ハートフル」とは、思いやり、感謝、感動、癒(いや)し...あらゆる良い心の働きを表現する言葉です。それは仏教の「慈悲」、儒教の「仁」、キリスト教の「隣人愛」などにも通じます。それは自らの心にあふれ、かつ、他人にも与えることのできるものなのです。

 その「ハートフル」とは、実は孔子が唱えた「礼」の同義語でもあるのです。 

 「礼」は儒教の神髄ともいえる思想です。それは、後世、儒教が「礼教」と称されたことからもわかるでしょう。そもそも「礼(禮)」という字は、「示」と「豊」とから成っています。漢字の語源にはさまざまな説がありますが、「示」は「神」という意味で、「豊」は「酒を入れた器」という意味があるといいます。つまり、酒器を神に供える宗教的な儀式を意味します。 

 古代には、神のような神秘力のあるものに対する禁忌の観念があったので、きちんと定まった手続きや儀礼が必要とされました。これが、「礼」の起源だと言われているのです。 

 ところが、もうひとつ、「礼」には意味があります。ここが非常に重要です。「示」は「心」であり、「豊」はそのままで「ゆたか」だというのです。ということは、「礼」とは「心ゆたか」、つまり「ハートフル」ということになります。

 つまり、「儀式が人間の心をゆたかにする」ということではないでしょうか。


■儀式に込められた力


 わたしは『葬式は必要!』(双葉新書)という本で、「カタチにはチカラがある」と提起しました。「カタチ」というのは儀式のことです。儀式には力があるのです。

 わたしは、儀式の本質を「魂のコントロール術」であるととらえています。

 儀式が最大限の力を発揮するときは、人間の魂が不安定に揺れているときです。

まずは、この世に生まれたばかりの赤ん坊の魂。

 次に、成長していく子どもの魂。そして、大人になる新成人の魂。それらの不安定な魂を安定させるために、初宮参り、七五三、成人式などがあります。

 結婚にまつわる儀式の「カタチ」にも「チカラ」があります。もともと日本人の結婚式とは、結納式、結婚式という2つのセレモニー、それに結婚披露宴という1つのパーティーが合わさったものでした。結納式、結婚式、披露宴の三位一体によって、新郎新婦は「結魂」の覚悟を固めてきたのです。今では結納式はどんどん減っていますが、じつはこれこそ日本人の離婚が増加している最大の原因であると思います。

 日本人の冠婚葬祭のカタチを作ってきた小笠原流礼法は「結び」方というものを重視し、ひもなどの結び方においても文化として極めてきました。

 結納とは「結び」を「納める」こと、まさに結納は「結び」方の文化なのです。

そう、結納によって、新郎新婦の魂、そして両家の絆を結ぶのです。それは、いわば「固結び」と言えるでしょう。現代のカジュアルな結婚式とは、いわば「チョウチョ結び」なのです。だから見た目はいいけれども、すぐに解けてしまうのです。つまり、離婚が起こりやすくなるのですね。結納こそは、新郎新婦の魂を固く結び、両家の絆を固く結ぶ力を秘めています。


■老いに揺れる魂を安定させるもの


 また、老いてゆく人間の魂も不安に揺れ動きます。なぜなら、人間にとって最大の不安である「死」に向かってゆく過程が「老い」だからです。

 しかしながら、日本には老いゆく者の不安な魂を安定させる一連の儀式があります。そう、長寿祝いです。61歳の「還暦」、70歳の「古希」、77歳の「喜寿」、80歳の「傘寿」、88歳の「米寿」、90歳の「卒寿」、99歳の「白寿」、などです。

 沖縄の人々は「生年祝い」としてさらに長寿を盛大に祝いますが、わたしは長寿祝いにしろ生年祝いにしろ、今でも「老い」をネガティブにとらえる「老いの神話」に呪縛されている者が多い現代において、非常に重要な意義を持つと思っています。それらは、高齢者が厳しい生物的競争を勝ち抜いてきた人生の勝利者であり、神に近い人間であるのだということを人々にくっきりとした形で見せてくれるからです。それは大いなる「老い」の祝祭なのです。

 そして、人生における最大の儀式としての葬儀があります。

 葬儀とは「物語の癒し」です。愛する人を亡くした人の心は不安定に揺れ動いています。大事な人間が消えていくことによって、これからの生活における不安。その人がいた場所がぽっかりあいてしまい、それをどうやって埋めたらよいのかといった不安。残された人は、このような不安を抱えて数日間を過ごさなければなりません。心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまったカタチを与えないと、人間の心はいつまでたっても不安や執着を抱えることになりますこれは非常に危険なことなのです。 

 死者が遠くへ離れていくことをどうやって演出するかということが、葬儀の重要なポイントです。それをドラマ化して、物語とするために葬儀というものはあるのです。また、葬儀には、いったん儀式の力で時間と空間を断ち切ってリセットし、もう一度、新しい時間と空間を創造して生きていくという意味もあります。もし、愛する人を亡くした人が葬儀をしなかったらどうなるか。

 そのまま何食わぬ顔で次の日から生活しようとしても、喪失でゆがんでしまった時間と空間を再創造することができず、心が悲鳴をあげてしまうのではないでしょうか。

さらに、一連の法要があります。これらは故人をしのび、冥福を祈るためのものです。故人に対し、「あなたは亡くなったのですよ」と今の状況を伝達する役割があります。また、遺族の心にぽっかりとあいた穴を埋める役割もあります。動揺や不安を抱え込んでいる心にカタチを与えることが大事なのです。儀式には、人を再生する力があるのです。