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一条真也
「『決定版 終活入門』~終末から修生へ」

 

こんにちは、一条真也です。
このたび、新刊『決定版 終活入門』(実業之日本社)を上梓しました。
いま、世の中は大変な「終活ブーム」です。
多数の犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、「生が永遠ではないこと」そして必ず訪れる「人生の終焉」というものを考える機会が増えたことが原因とされます。多くの高齢者の方々が、生前から葬儀や墓の準備をされています。
また、「終活」をテーマにしたセミナーやシンポジウムも花ざかりで、わたしも何度も出演させていただきました。さらに、さまざまな雑誌が「終活」を特集しています。ついには日本初の終活専門誌まで発刊され、多くの読者を得ています。
その一方で、「終活なんておやめなさい」といった否定的な見方も出てきています。
このようなブームの中で、気になることもあります。「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人もお会いしました。
もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。
そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しました。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。
有史以来、「死」は、わたしたち人間にとって最重要テーマでしたし、それは現在も同じです。わたしたちは、どこから来て、どこに行くのか。そして、この世で、わたしたちは何をなし、どう生きるべきなのか。これ以上に大切なことなど存在しません。
なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け容れがたい話はありません。
「明日ありと想うこころの仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
これは浄土真宗の宗祖である親鸞が九歳で得度する前夜に詠まれた歌ですが、明日を保証されている人など誰もいないという明白な事実を、どうやら忘れている人が多いようです。
年老いたから「終活」するというよりも、年齢には関係なく、つねに「いま」「ここに」生を修めることを心がけたいものです。そんな想いを、わたしは「修生」という言葉で表現したいと思いました死を見つめることは、生を輝かせること。『葉隠』の「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」の一句は、じつは壮大な逆説ではないでしょうか。それは一般に誤解されているような、武士道とは死の道徳であるというような単純な意味ではありません。武士としての理想の生をいかにして実現するかを追求した「生の哲学」の箴言なのです。そして、「生の哲学」を最も感じさせるものこそ、わが国の戦国乱世に生きた武将たちの死生観です特に、彼らが辞世の歌を詠む心境に「修生」というものを強く感じます。
「極楽も地獄も先は有明の 月の心に懸かる雲なし」
これは、戦国武将の中でもわたしが最も尊敬する上杉謙信の辞世の歌です。その大意は「生まれかわる先が極楽でも地獄でもよい。今は夜明けに残る月のように、心は晴れ晴れしている」といったところでしょうか。
ただ「生きる」のではなく「美しく生きる」ことにこだわり、「非道を知らず存ぜず」という信条を持っていた謙信の「生きざま」は彼の辞世にも強く反映しているように思えるのです。
日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と言われます。
でも、こんなおかしな話はありません。わたしたちは、みな、かならず死にます。死なない人間はいません。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものです。
わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのでしょうか。どんな素晴らしい生き方をしても、どんなに幸福感を感じながら生きても、最後には不幸になるのでしょうか。
そんな馬鹿な話はないと思いませんか。わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。
なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来かならず不幸になるからです。
死は決して不幸な出来事ではありません。
「生老病死」という言葉がありますが、生まれたことにも意味があり、老いることにも、病むことにも、そして死ぬことにも意味があるのです。
かつての日本は、たしかに美しい国でした。しかし、いまの日本人は美しいどころか醜く下品になり、日本人の美徳であった「礼節」を置き去りし、人間の尊厳や栄辱の何たるかも忘れているように思えてなりません。それは、戦後の日本人が「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないでしょうか。そもそも、人生そのものが修業です。
老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。考えてみれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないでしょうか。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活なのです。そして、人生の集大成としての「修生活動」があります。
人生を卒業するという運命を粛々と受け容れ、老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。
すべての美しい日本人のために、わたしは『決定版 終活入門』を書きました。
本書を読まれた方が、その方らしく人生を修められることを願ってやみません。