第7回
一条真也
「冠婚葬祭とは何か」

 

 『決定版 冠婚葬祭入門』(実業之日本社)という本を上梓しました。
 「冠婚葬祭」についての基本的なルールやマナーを紹介するハンドブックです。
 ところで、「冠婚葬祭」とは何でしょうか。
 「冠婚+葬祭」として、結婚式と葬儀のことだと思っている人も多いようです。たしかに婚礼と葬礼は人生の二大儀礼ではありますが、「冠婚葬祭」のすべてではありません。「冠婚+葬祭」ではなく、あくまで「冠+婚+葬+祭」なのです。
 「冠」はもともと元服のことで、15歳前後で行われる男子の成人の式の際、貴族は冠を、武家は烏帽子を被ることに由来します。
 現在では、誕生から成人までのさまざまな成長行事を「冠」とします。
 「祭」は先祖の祭祀です。三回忌などの追善供養、春と秋の彼岸や盆、さらには正月、節句、中元、歳暮など、日本の季節行事の多くは先祖を偲び、神を祀る日でした。現在では、正月から大晦日までの年中行事を「祭」とします。
 そして、「婚」と「葬」があります。
 その生涯において、ほとんどの人間が経験する結婚という慶事には結婚式、すべての人間に訪れる死亡という弔事には葬儀という形式によって、喜怒哀楽の感情を近隣の人々と分かち合うという習慣は、人種・民族・宗教を超えて、太古から現在に至るまで行われています。
 この二大セレモニーは来るべき宇宙時代においても当然継承されることが予想される「不滅の儀式」であり、おそらく人類の存続する限り永遠に行われることでしょう。
 しかし、結婚式ならびに葬儀の形式は、国により、民族によって、きわめて著しく差異があります。これは世界各国のセレモニーというものが、その国の長年培われた宗教的伝統あるいは民族的慣習といったものが、人々の心の支えともいうべき「民族的よりどころ」となって反映しているからです。
 日本には、茶の湯・生け花・能・歌舞伎・相撲といった、さまざまな伝統文化があります。そして、それらの伝統文化の根幹にはいずれも「儀式」というものが厳然として存在しています。儀式なくして文化はありえず、ある意味で儀式とは「文化の核」であると言えるでしょう。
 現在の日本社会は「無縁社会」などと呼ばれています。しかし、この世に無縁の人などいません。どんな人だって、必ず血縁や地縁があります。そして、多くの人は学校や職場や趣味などでその他にもさまざまな縁を得ていきます。この世は、最初から多く「縁」で満ちているのです。ただ、それに多くの人々は気づかないだけなのです。
 わたしは、「縁」という目に見えないものを実体化して見えるようにするものこそ冠婚葬祭ではないかと思います。結婚式や葬儀、七五三や成人式や法事・法要のときほど、縁というものが強く意識されることはありません。冠婚葬祭が行われるとき、「縁」という抽象的概念が実体化され、可視化されるのではないでしょうか。
 日本には「春夏秋冬」の四季があります。わたしは、儀式というものは「人生の季節」のようなものだと思います。七五三や成人式、長寿祝いといった人生儀礼とは人生の季節、人生の駅なのです。わたしたちは、季語のある俳句という文化のように、儀式によって人生という時間を愛でているのかもしれません。それはそのまま、人生を肯定することにつながります。
 そう、儀式とは人生を肯定することなのです。 冠婚葬祭とは、すべてのものに感謝する機会でもあります。 
 七五三・成人式・長寿祝いなどに共通することは、基本的に「無事に生きられたことを神に感謝する儀式である」ということ。ですから、いずれも神社や神殿での神事が欠かせません。
 わたしは、「おめでとう」という言葉は心のサーブで、「ありがとう」は心のレシーブであると思っています。これまでの成長を見守ってきたくれた神仏・先祖・両親・そして地域の方々へ「ありがとうございます」という感謝を伝える場を持つことが、心と人生を豊かにするのではないでしょうか。