こんにちは、一条真也です。
2月23日は「富士山の日」でした。これは、平成21年12月25日に静岡県が条例を定めたことによるとか。静岡県の公式ホームページには、次のように書かれています。
「国民の財産であり、日本のシンボルである富士山は、その類まれなる美しい自然景観により、人の心を打ち、芸術や信仰を生み出してきました。こうした偉大なる富士山を抱く静岡県において、すべての県民が富士山について学び、考え、想いを寄せ、富士山憲章の理念に基づき、後世に引き継ぐことを期する日として、2月23日を『富士山の日』とする条例を制定しました」
富士山といえば、昨年11月21日にその勇姿を堪能しました。
その日の朝、わたしは遠足に行く小学生のようにワクワクしながら、東京のホテルで目覚めました。
なぜ、ワクワクしているかというと、今日はこれから新幹線で静岡に向かうからです。
そして、新幹線の車中で富士山が見れるからです。
何を隠そう、わたしは三度の飯より富士山が大好きなのです!
東京のホテルの客室の窓からも、富士山がよく見えました。
新宿の超高層ビル街と富士山が並んでいる姿はなんだかシュールです。
これから、あの富士山に近づくと思うと、胸が高鳴ります。
東京駅から新幹線ひかり号の岡山行きに乗り込みました。
もちろん、座席は右の窓側です。富士山好きなら常識です。
もう新横浜のあたりから富士山の姿をバンバン拝むことができました。
熱海を過ぎてからはさらに勇壮な姿が間近に見れて、感動します。
昨年6月22日に富士山が世界文化遺産に登録されました。
なんといっても富士山は日本人の「こころ」のシンボルです。
数多くの芸術作品の題材とされ、芸術面でも大きな影響を与えました。
わたしは、学生時代に富士山に車で登ったことがありますが、とても神聖な気分になれました。また、飛行機の機内や新幹線の車内から富士山の勇姿を見るたびに、元気になれるような気がします。
富士山は「芸術の源泉」であるとともに「信仰の対象」でもありました。 古来より霊峰とされ、日本人の信仰の対象になってきました。
特に浅間大神が鎮座するとされた山頂部は神聖視されました。富士山修験道の開祖とされる富士上人によって、修験道の側面も築かれ、登拝が行われるようになりました。
いわゆる「富士信仰」が生まれ、「富士講」などが派生します。
わたしは、富士山の雪に覆われて白くなった山頂部を見るたびに思うことがあります。それは、「真理はひとつ」ということです。2013年に上梓した『命には続きがある』(PHP研究所)では、東京大学医学部大学院教授で東大病院救急部・集中治療部長の矢作直樹先生と「宗教」の問題について語り合いました。矢作先生は登山家でもありますが、わたしたちは山の頂が1つだが、そこに至る道はいくつもあるということを確認しました。その道というのが仏教やキリスト教やイスラム教といったさまざまな宗教であり、「幸福」という名のそれらの目的地こそ富士山の山頂ではないかと思います。
登るルートは複数でも、富士山の頂上は1つなのです。
さて、静岡を訪れたわたしは、富士山が最高に美しく見える日本平、徳川家康の墓所がある久能山東照宮、そして登呂遺跡を見学しました。
登呂遺跡は、静岡市駿河区登呂5丁目にある弥生時代後期の農業村落址です。
弥生時代といえば農耕社会が成立したことで知られますが、その基本は「相互扶助」であったとされています。これに関連して、興味深い新説をネットで知りました。画家で国学者の白井忠俊氏が自身のHPで「縄文考 ヤマトとは何か?」という文章を書いていますが、その中で白井氏は「現在もっとも重要なのは『人と人が助け合う相互扶助の"ツナがり"』です。私は言葉の"ツナ"に込められた思いを考えると、日本語とは縄文人が積み上げて作り出した『ヤマトコトバ』であることを強く感じます」と述べています。
白井氏は、日本語(ヤマトコトバ)は縄文時代から続く言語であるという前提に立ち、「ヤマトコトバ」の"ヤマト"にはどのような意味があるのかを推論します。
そこに縄文時代から続く祖先の知恵があると考えられるからだそうです。
画家である白井氏は「風景」に注目し、「日本」をイメージする最も有名でポピュラーな景色というものを2つ考えます。ひとつは富士山が見えること、もうひとつは太平洋から日の出が見えること。
現代でもお正月に必ず使われるイメージ画像は「富士山」と「初日の出」です。
白井氏は「富士山が見える物件、美しい日の出が見える物件は今でも高い付加価値があります。古代人にとっても景色が居住地域を決定する要素であってもいいのではないでしょうか?」と推察するのです。さらに、白井氏は次のように述べています。
「"ヤマのフモト"の"ヤマ"は『富士山』を表すと考えます。
縄文人が暮らす地域、そして富士山が見える地域で話される言葉。それがヤマトコトバであると考えてみましょう。するとヤマトコトバが産まれ・育まれた地域は関東・東海となります。ですので、ヤマトコトバの発祥は関西でも九州でもないと考えてみます。教科書的には日本文化の起源に奈良・京都をイメージしますが、それは弥生時代・古墳時代以降です。
そして、もうひとつ重要なことは奈良・京都から富士山は望めません。
縄文時代から考えると多くの人々が暮らした場所は関東・東海となります。
弥生時代から人口密度の高い地域が近畿まで広がります。この拡大領域が"ヤマト"と呼ばれた地域の広がりと考えることはできないでしょうか?」
「富士山」と「日の出」をことのほか大切にする人々、それが日本列島に早い段階から暮らしていた日本人の祖先だと考えられます。ならば、まさに登呂遺跡に住んでいた古代人はそれに相当します。静岡市ならば、富士山も見えるし、駿河湾に上る初日の出も拝めるからです。そして、富士山のフモトで暮らす人々という点も、ぴったり当てはまりますね。
実際、登呂博物館の屋上から、見事な富士山を見ることができました。
この白井説の真偽は、専門家ではないわたしはわかりません。
しかし、富士山が日本人の本質に深く関わっていることだけはわかります。
日本人は、桜と美人と富士山を好みます。桜は散ってしまうし、美人は薄命、富士山の雄大な姿はいつも眺められるわけではありません。はかないものほど美しく、見る者の心を打つのでしょう。
そして、日本には四季というものがあります。春夏秋冬・・・・・それぞれの季節は、富士山を背景として一段とその輝きを増すのです。わたしは、四季がある日本、富士山のある日本に生まれたことを心から誇りに思います。そのうち、「日本一の山」富士山に登ってみたいと思っています。