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一条真也
「永遠の0~日本人が到達した奇跡のような死生観」

 

こんにちは、一条真也です。
日本映画「永遠の0」は御覧になりましたか。
わたしは、昨年12月21日の公開初日に鑑賞しました。
じつに400万部という百田尚樹氏の大ベストセラー小説を「ALWAYS」シリーズなどの山崎貴監督が映画化した戦争ドラマです。1人の零戦搭乗員の短い生涯とその後の数奇な物語が感動的に描かれています。
この映画には、佐伯健太郎という青年が登場します。司法試験に落ち続け、不本意ながらもニートの日々を送る彼は、祖母の葬儀の席で会ったことのない実の祖父・宮部久蔵の存在を知ります。
そのうち、健太郎はジャーナリストの姉・慶子から特攻で死んだ宮部久蔵について一緒に調べてほしいと持ちかけられます。健太郎は、気軽な気持ちで調査を請け負い、姉とともに祖父の久蔵の知人たちのもとを訪れ、話を聞くのでした。しかし、終戦から60年を過ぎ、久蔵を知る人々もみな年老いていました。
余命わずかな人々から話を聞くうち、飛行機乗りとして「天才だが臆病者」などと呼ばれた祖父の真の姿が次第に浮き彫りになっていきます。
久蔵は、結婚して間もない妻と、出征後に生まれた娘を故郷に残していました。
「自分は絶対に死ねない」と言い続け、必ず家族の元に帰るという強い信念を抱いていたのに、終戦の直前、神風特攻隊に志願した久蔵は亡くなります。
「天地明察」「図書館戦争」で紹介した映画で主演を果たした岡田准一が宮部久蔵を演じます。また、妻の松乃を井上真央、松乃の再婚相手の佐伯賢太郎を夏八木勲、孫の佐伯健太郎を三浦春馬、その姉の慶子を吹石一恵、その母の清子を吹雪ジュンが演じています。生前の久蔵を知る老人たちには、田中泯、山本學、平幹二朗、橋爪功らが扮しています。
他に、濱田岳、新井浩文、染谷将太、三浦貴大、上田竜也らが零戦搭乗員として出演。若手からベテランまで、じつに多彩で贅沢な俳優たちが重厚な「生」と「死」の物語を彩ってくれます。
観終わった感想ですが、まずは、あれほど「家族のもとへ帰る」と強い信念を持っていた宮部久蔵がなぜ、特攻隊に志願し、かつ自分の搭乗機を他人と交換したのかという点が引っ掛かりました。
おそらくは「家族のもとへ帰りたい」という想いをとともに「命を散らせた仲間たちのもとへ行きたい」という想いが共存していたのではないでしょうか。あるいは、教官であった自分が生き残って、生徒だった若い連中が先に死んでいったことに対する「罪」の意識があったのかもしれません。
特攻隊で生き残った人たちは、「死んだ者たちによって、自分は生かされている」という思いが強かったそうです。原作者である百田尚樹氏は、「誰のために生きているのか、何のために生きているか。宮部久蔵はそれを知っていた男なんです」と映画パンフレットで述べています。
この映画で「現代」として描かれている時代は2013年ではありません。
2004年、すなわち「終戦60周年」の前年です。大きな節目を迎えるにあたって、フリーライターの佐伯慶子は特攻隊員だった祖父についての取材を思い立ち、弟の健太郎に相談したわけです。姉弟が会いに行った祖父の知人たちはみな老人で、中には死の直前にようやく話が聞けた人もいました。
この「終戦60周年」に当たる2005年のわが社の社内報において、わたしは次のように書きました。
「今年の8月は、ただの8月ではありません。日本人だけで実に310万人もの方々が亡くなられた、あの悪夢のような戦争が終わって60年目を迎える大きな節目の月です。60年といえば人間でも還暦にあたり、原点に返るとされます。事件や出来事も同じ。 どんなに悲惨で不幸なことでも60年経てば浄化される『心の還暦』のような側面が60周年という時間の節目にはあると思います。また現在、わたしどもの紫雲閣でお葬儀を執り行うとき、神風特攻隊で生き残られた方など、戦争で兵士として戦った最後の方々の葬儀がまさに今、行われていることを実感します。おそらく10年後の終戦70周年のときには戦争体験者はほとんど他界され、『あの日は暑かった』式の体験談を聞くことはないでしょう。過去の記憶と現実の時間がギリギリでつながっている結び目、それが60周年であると言えるのではないでしょうか」
そう、再来年の2015年で「終戦70周年」となりますが、2005年には存命だった方々も今ではもうほとんどが他界されています。わたしは、2005年8月1日に、「ひめゆりよ 知覧ヒロシマ長崎よ 手と手あわせて 祈る八月」という鎮魂の歌を詠みました。
先の戦争について思うことは、あれは「巨大な物語の集合体」であったということです。真珠湾攻撃、戦艦大和、回天、零戦、神風特別攻撃隊、ひめゆり部隊、沖縄戦、満州、硫黄島の戦い、ビルマ戦線、ミッドウェー海戦、東京大空襲、広島原爆、長崎原爆、ポツダム宣言受諾、玉音放送・・・挙げていけばキリがないほど濃い物語の集合体でした。それぞれ単独でも大きな物語を形成しているのに、それらが無数に集まった巨大な集合体。それが先の戦争だったと思います。
じつに文庫本として歴代最大の部数を記録したという大ベストセラーになった「永遠の0」も、巨大な集合体から派生した小さな物語に過ぎません。
「男たちの大和/YAMATO」も、「硫黄島からの手紙」も、「一枚のハガキ」も、「終戦のエンペラー」も、そして宮崎アニメの最高傑作とまでいわれている「風立ちぬ」も、すべては同じです。
実際、あの戦争からどれだけ多くの小説、詩歌、演劇、映画、ドラマなどが生まれていったことでしょうか。それを考えると、呆然としてしまいます。
「物語」といっても、戦争はフィクションではなく、紛れもない歴史的事実です。
わたしの言う「物語」とは、人間の「こころ」に影響を与える意味の体系のこと。
人間ひとりの人生も「物語」です。そして、その集まりこそが「歴史」となります。
そう、無数のヒズ・ストーリー(個人の物語)がヒストリー(歴史)を作るのです。
「永遠の0」のラスト近くで、すべての真相を娘と2人の孫に語った佐伯賢太郎が「あの頃、みんながそれぞれの物語を抱えていた。そして、みんな何事もなかったかのようなフリをして生きていた。それが、戦争で生き残るということなんだ」と言うセリフがあり、わたしの心に強く残りました。
映画「永遠の0」では、冒頭と最後に宮部久蔵が乗った零戦が登場します。2つの場面は1時間40分もの時間をはさんで結びつき、そこに時間も空間も超越した大いなる「0」が立ち現れます。
そして、久蔵は永遠の時間の中で生き続けるのです。
かつて日本人が到達した奇跡のような死生観を見事に表現した大傑作であると思いました。

2014.2.15