昨年末、『慈を求めて』(三五館)という本を上梓したが、そこで「慈礼」というコンセプトを打ち出した。
わが社の本業である「冠婚葬祭」の根本をなすのは「礼」の精神にほかならない。
では、「礼」とは何であろうか。それは、2500年前に中国で孔子が説いた大いなる教えだ。平たくいえば、「人間尊重」ということである。そして、それを実現するには礼儀作法が必要となる。
いま、わたしたちが「礼儀作法」と呼んでいるものの多くは、武家礼法であった小笠原流礼法がルーツとなっている。北九州は小倉の地と縁の深い小笠原流こそ、日本の礼法の基本なのだ。
特に、冠婚葬祭に関わる礼法のほとんどすべては小笠原流に基づいているとされる。
しかしながら、小笠原流礼法などというと、なんだか堅苦しいイメージがあるのも事実だろう。
「慇懃無礼」という言葉があるくらい、「礼」というものはどうしても形式主義に流れがちである。また、その結果、心のこもっていない挨拶、お辞儀、笑顔が生れてしまう。
ならば、どうすればいいか。わたしは、「慈」という言葉を「礼」と組み合わせてはみてはどうかと思う。
「慈」とは何か。それは、他の生命に対して自他怨親のない平等な気持ちを持つこと。わが社は、門司区にある日本で唯一のビルマ(ミャンマー)式寺院「世界平和パゴダ」の支援をさせていただいている。このパゴダを支援する活動の中で、わたしは上座部仏教の根本経典である「慈経」の存在を知り、そこに説かれている「慈」について考え続けてきた。
「ブッダの慈しみは、愛も超える」と言った人がいたが、仏教における「慈」の心は人間のみならず、あらゆる生きとし生けるものへと注がれる。
「慈」という言葉は、他の言葉と結びつく。たとえば、「悲」と結びついて「慈悲」となり、「愛」と結びついて「慈愛」となる。
わたしは「慈」と「礼」を結びつけ、「慈礼」という新しいコンセプトを提唱したい。
「慈礼」つまり「慈しみに基づく人間尊重の心」があれば、心のこもった挨拶、お辞儀、笑顔が可能となります。
ブッダと孔子のコラボともいえる「慈礼」は、キリスト教の「ホスピタリティ」と同義語である。また、神道的世界から生まれたとされる「おもてなし」という言葉にも通じる。
それらは「こころ」を「かたち」にすることであり、宗教や民族や国家を超えた普遍性を持っているのだ。今後も、わたしは「慈礼」を求め続けていきたい。