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一条真也
「かぐや姫と日本人〜"面倒"の中にこそ幸せがある」
あけまして、おめでとうございます。今年も、よろしくお願いいたします。
前回のテーマは「月への送魂」でしたが、「月」といえば「かぐや姫」ですね。
正月休みに映画館でスタジオジブリの最新作「かぐや姫の物語」を観ました。
昨年11月末の公開直後にも観ているので、二度目の鑑賞です。この映画は、世界最古の長編物語といわれる『竹取物語』を題材に、数々の傑作を生み出してきた巨匠・高畑勲監督が手掛けた長編アニメーションです。
今は昔、光り輝く竹の中からかわいらしい女の子が現れ、それを見つけた竹取の翁が媼と共に大切に育てます。女の子は、またたく間に美しい娘に成長します。翁は女の子を高貴な姫として育てることを決意し、竹の中から出てきた財宝をもとでに都に立派な屋敷を作り、そこに姫ともども移り住みます。
さらに美しくなった女の子は「かぐや姫」と名付けられ、うわさを聞き付けた都の貴族たちが求婚してくるようになります。結婚などしたくない姫は、彼らに無理難題を突き付け、次々と遠ざけます。彼らは姫を想うあまり、身を持ち崩したり、命さえ失ったりします。やがて、かぐや姫は月を見ては物思いにふけるようになり、「次の満月の夜、月からの使者が迎えにくるが、帰りたくない」と言うのでした。
日本人なら誰でもよく知っている物語ですが、特に斬新な解釈でとらえ直しているわけではありません。むしろ、原作になるべく忠実にアニメ化しながらも、「かぐや姫はどうして地球に生まれやがて、月へ帰っていったのか」という最大の謎をさりげなく解いています。そして、これまでは描かれなかったかぐや姫の謎めいた運命と彼女の本当の胸の内を水彩画のようなタッチで描きます。
世界最古の長編物語は日本人が生み出しました。そして、それはロマンティックな月の物語でした。
日本人は月が好きです。日本文化を考えるうえでのキーワードは「自然」ですが、松尾芭蕉は、自然を「造化」と呼びました。 「造」はつくりだすこと、「化」は形を変えることです。
英語の「ネイチュア」と見事に一致していますね。
すなわち、ネイチュアとは、物ではなく運動なのです。
そして日本の自然において、「雪月花」がそのシンボルとなります。
つまり、雪は季節の移り変わり、時間の流れを表わし、月は宇宙、空間の広がりを表わします。花は時空にしたがって表われる、さまざまな現象そのもののシンボルといえるでしょう。「かぐや姫の物語」では、雪も月も花もこの上なく美しく描かれていました。 満開の桜の花も見事でしたが、雪の上に横たわるかぐや姫の頭上に月が出ている場面は、ため息が出るほど美しかったです。
「造化」の三大要素の1つが「月」である意味はとても大きいと思います。
日本では、明治の初めまで暦は中国にならって太陰暦を使っていました。いうまでもなく、太陰暦というのは月を基本にした暦であり、農耕のプランもそれによって決められていました。当然、日本人の生活全体にわたって月が深く関わってきたことがわかります。日本人の月好きは、太陽暦が採用された明治以降もほとんど変わりません。やっと昭和30年になって、石原慎太郎が小説「太陽の季節」を発表し、その翌年、弟の裕次郎の主演で映画化され、大ヒットしました。このヒットで「太陽族」という流行語まで生まれましたが、それも全体の流れからすれば単なる一時的な現象にすぎません。
『古事記』の中の「天の岩戸」の物語など、いくつかの物語を除いて、日本文学史のほとんど全体が「太陽の時代」というよりも「月の時代」でした。
それは、日本人の感性が月とぴったり合うからにほかなりません。
『古事記』や『日本書紀』には月読尊(ツキヨミノミコト)という月の神様が登場し、『万葉集』では月を「月人壮子(つきひとおとこ)」と呼んでいます。
そして、日本には世界最古の長編小説である『竹取物語』というロマンティックな月の物語があります。また、月の美を描いた物語としては、『源氏物語』の須磨巻、『平家物語』の月見の章も有名です。
平安時代に入ってからは、多くの歌人が月光のただならぬ美しさを和歌に詠みました。「三五夜中新月の色、二千里の外故人心」という中国の詩人・白楽天の詩句が平安時代の貴族に愛され、時間と空間を超えて、見る者に過去や未来、それに遠く離れた人を思わせる不思議な力の持ち主としての月が歌われました。これこそが、日本人の見出した月の美でした。
『竹取物語』は、もともと仏教説話として書かれたと言われています。
月の美しさの前にはまったく無力な人間たちを登場させることで、月の美しさをきわだたせています。そこには日本人の月への憧れの強さが端的に語られていますが、幸田露伴は「日本の古き物語の一に就きて」において、『仏説月上女経』という仏書が『竹取物語』の種本であると明言しています。
さて、わたしは二度ともこの映画を1人で観たのですが、本当は2人の娘たちと一緒に観たかったです。なぜなら、わたしは2人の娘を「姫」だと思って育ててきたからです。最初に、竹取の翁が光る竹の中から女の子を見つけたとき、翁は「これは天からの授かりものに違いない」と言います。それとまったく同じで、子どもというのは基本的に「天からの授かりもの」であり、「天からの預りもの」だと思います。それは、わたしの娘たちだけでなく、世の中の子どもはみんなそうなのです。
映画の最初のほうで、幼い姫が近所の子たちに「たーけの子!」とはやし立てられ、よろよろ歩くシーンがあります。それを見ていた翁は愛しさのあまり、たまらず駆け寄り、姫を抱き上げます。
その翁の目には光るものがありました。それを観たわたしも、なんだか泣けてきました。
2人の娘たちが赤ちゃんだった頃を思い出しました。かぐや姫が月に帰るとき、翁は「姫のオムツを替えるとき、どんなにわしが嬉しかったか」と言う場面があります。これにも深く共感しました。
最近わたしは、「面倒くさいこと」の中にこそ、人間の幸せがあるのではないかと思えてなりません。
考えてみれば、赤ちゃんのオムツを替えることだって、早起きして子どもの弁当を作ることだって、寝たきりになった親の介護をすることだって、みんな「面倒くさいこと」です。でも、それらは親として、子として、やらなければならないこと。そして、子どもが成長した後、また親が亡くなった後、どうなるか。
わたしたちは「あのときは大変だったけど、精一杯やってあげて良かった。あのとき、自分は幸せだった」としみじみと思うのです。 それが「面倒くさいこと」のままであれば、どうなるか。行き着く果ては、赤ん坊を何人も捨ててしまう鬼畜のような親が出現するのではないでしょうか。
最近の日本人は、親が亡くなっても周囲に知らさず、身内だけでこっそり葬儀を済ませてしまう人が多いようです。そこには「迷惑をかけたくない」というより「面倒くさいことはしたくない」という本音が隠れていると思えてならないのはわたしだけでしょうか。
2014.1.15