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一条真也
「『風立ちぬ』と『終戦のエンペラー』
〜巨大な物語の集合体」
こんにちは、一条真也です。
8月も過ぎましたが、まだまだ毎日暑いですね。この夏、わたしは2本の映画を観ました。いずれも戦争が重要なテーマになっていました。
1本は、宮崎駿監督のアニメ映画「風立ちぬ」です。
この作品の舞台は大正から昭和にかけての日本ですが、戦争、大震災、世界恐慌による深刻な不景気など、非常に暗い時代でした。そんな中で、飛行機作りに情熱を傾けた青年・堀越二郎の人生が描かれています。
列車に乗っていた彼は、関東大震災に遭遇しますが、そのとき乗り合わせていた菜穂子という少女に出会います。数年後、避暑に訪れていた軽井沢のホテルで再会した二人は恋に落ちて、結婚の約束をしますが、そのとき菜穂子は結核に冒されていたのでした。菜穂子の励ましもあって、二郎はゼロ戦を生み出します。ところが、愛する二人の前には過酷な運命が待っていたのでした。
この「風立ちぬ」ほど、ロマンティックな物語もないでしょう。
宮崎駿という人が「筋金入りのロマンティスト」であることがよくわかります。ロマンティシズムの最大の要素といえば「愛」と「死」ですが、この映画には両方の要素がたっぷりと詰まっています。
「愛」といえば、二郎と菜穂子の純愛は、その劇的な出会いと再会、そして悲劇というべき別れが観衆の涙を誘います。何よりも、わたしの胸を打ったのは急遽行われた二人の祝言のシーンでした。
二郎の上司である黒川とその妻が仲人を務めたのですが、本当に素朴で粗末で、健気で、心のこもった素晴らしい祝言でした。わたしは、この場面を観て泣けて仕方なかったです。そして、かねてからの持論である「仲人は必要!」「結婚式は必要!」という考えを再認識しました。
また「死」といえば、ヒロインの菜穂子が作中で亡くなります。
作中で描かれる関東大震災のリアルな描写も、大量死を観衆にイメージさせます。アニメで関東大震災が描かれたのは記憶になく、おそらくは初めてではないでしょうか。わたしは、「いずれ、東日本大震災の惨劇もアニメで描かれる日がくるのか・・・」と思いました。
二郎が作ったゼロ戦そのものが巨大な「死」の影を帯びています。さらには、主題歌であるユーミンの「ひこうき雲」は、まさに死のロマンティシズムの極致だと言えるでしょう。この「ひこうき雲」は、まさに映画「風立ちぬ」の主題歌となるべく30年前に生まれた曲のように思えてなりません。
さて、もう1本の映画はアメリカ映画「終戦のエンペラー」です。
1945年8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の司令官としてダグラス・マッカーサー元帥(トミー・リー・ジョーンズ)が日本に上陸します。彼は、日本文化に精通している部下のボナー・フェラーズ准将(マシュー・フォックス)に極秘任務を下します。それは、太平洋戦争の真の責任者を探し出すというものでした。さらに言えば、天皇裕仁に戦争責任はあるか否かを判定するという重大なミッションだったのです。フェラーズ准将は日本についての論文も書いている日本通ですが、大学時代に日本人留学生アヤと恋に落ち、5年前にも来日していました。わずか10日間という期限の中、フェラーズは必死の調査で日本国民ですら知らなかった太平洋戦争にまつわる事実を暴き出していきます。
最後は、究極の国家機密ともいうべき衝撃の事実にたどり着くボナーの姿を息詰まるタッチで描く歴史サスペンスの傑作に仕上がっています。
「終戦のエンペラー」は、昭和天皇の実像に迫る作品です。
マッカーサーと初対面を果たした天皇は、まず一緒に写真を撮影します。
あの、あまりにも有名な天皇とマッカーサーのツーショット写真です。
天皇は写真を撮り終え一度は椅子に腰掛けます。しかし、すぐに立ち上がってマッカーサー元帥に自身の偽らざる思いを述べます。そう、戦争に対する自らの責任について心のままに述べるのです。
このシーンを見て、わたしは涙がとまりませんでした。
歴代124代の天皇の中で、昭和天皇は最もご苦労をされた方です。
その昭和天皇は、自身の生命を賭してまで日本国民を守ろうとされたのです。
昭和天皇が姿を見せるシーンは最後の一瞬だけでしたが、圧倒的な存在感でした。そして、実際の天皇の存在感というのも、この映画の「一瞬にして圧倒的」という表現に通じるのではないでしょうか。
この映画には「儀礼の国」としての日本がよく描かれていました。
神道・仏教・儒教が共生する日本は、儀礼という「かたち」を重んじる国です。
そして、日本人の儀礼文化のルーツを辿れば、そこには宮中儀礼があります。
わたしたちが通常行う「通夜」にしろ、古代の天皇家が行っていた「殯(もがり)」を源流とします。
神前結婚式は、大正天皇の御成婚の儀に由来します。
この映画では、缶コーヒーのCMでおなじみのトミー・リー・ジョーンズ演じるマッカーサーが、故・夏八木勲演じる関谷貞三郎から天皇と面会するときの作法の手ほどきを受けるシーンが登場します。
天皇に直接手を触れてはならず、握手もしてはならない。
天皇の写真を撮影するときは遠方からに限られる。
天皇の目を正面から見てはならず、名前を呼んでもいけない。
並んで立つときは、必ず天皇の左側に立たなければならない・・・・・。
戦勝国の最高責任者が敗戦国の君主に対して、ここまで気を遣わなければならないというのも、よく考えれば奇妙な話ですが、これにまったく違和感を覚えないほど、天皇という存在自体が「儀礼」そのものであると言えるでしょう。そう、日本における「天皇」は儀礼王としての「礼王(らいおう)」のなのです。
先の戦争について思うことは、あれは「巨大な物語の集合体」であったということです。真珠湾攻撃、戦艦大和、回天、ゼロ戦、神風特別攻撃隊、ひめゆり部隊、沖縄戦、満州、硫黄島の戦い、ビルマ戦線、ミッドウェー海戦、東京大空襲、広島原爆、長崎原爆、ポツダム宣言受諾、玉音放送・・・挙げていけばキリがないほど濃い物語の集積体でした。それぞれ単独でも大きな物語を形成しているのに、それらが無数に集まった巨大な集合体。それが先の戦争だったと思います。
「風立ちぬ」にしても「終戦のエンペラー」にして巨大な集合体から派生した小さな物語に過ぎません。実際、あの戦争からどれだけ多くの小説、詩歌、演劇、映画、ドラマが派生していったでしょうか・・・・・。「物語」といっても、戦争はフィクションではありません。紛れもない歴史的事実です。
わたしの言う「物語」とは、人間の「こころ」に影響を与えうる意味の体系のことです。
人間ひとりの人生も「物語」です。そして、その集まりこそが「歴史」となります。
そう、無数のヒズ・ストーリー(個人の物語)がヒストリー(歴史)を作るのです。
2013.9.1