第63回
一条真也
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
村上春樹著(文藝春秋)
「ノーベル文学賞」に最も近い世界的作家である村上春樹の久々の最新作です。言うまでもなく、ものすごく売れています。
本書の評価をネットで見ると賛否両論で、「さすが村上春樹」という絶賛と「村上春樹はもう終わった」という失望の声が入り乱れていますね。
しかし、わたしは「とても面白い小説だな」と思いました。まず、非常に読みやすい。コミックの原作かライトノベルのようなリーダブルな小説です。でも、扱っているテーマは、これまでの村上作品と同じく重い、です。
「大学2年生の7月から、翌年の1月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬことだけを考えて生きていた」という書き出しで、この物語は始まります。いきなり、本文の第一行目から「死ぬ」という単語が登場するのです。そして、この物語には最後まで「死」の気配がありました。
もともと村上春樹の文学には、つねに死の影が漂っています。彼の作品にはおびただしい「死」が、そして多くの「死者」が出てくるのです。哲学者の内田樹氏などは、村上春樹のほぼ全作品が「幽霊」話であると指摘しています。もっとも村上作品には「幽霊が出る」場合と「人間が消える」場合と二種類ありますが、これは機能的には同じことであるというのです。そして、本書にも、しっかり死者が登場します。このような「幽霊」文学を作り続けてゆく村上春樹の心には、おそらく「死者との共生」という意識が強くあるのでしょう。
なぜ、多崎つくるが「死ぬ」ことだけを考えるようになったのか。それは、彼がこの上なく大切にしていた親友たちから絶交されたからです。それも、彼自身には絶交される理由がまったく思い浮かばないという不条理な経験をしたからです。その結果、彼は大きな喪失体験をするのでした。まるで3・11のように。
不条理なままに親友たちから拒絶された多崎つくるは、「航行している船のデッキから夜の海に、突然一人で放り出されたような気分」を味わいます。しかし、彼はなんとか自力で(少しは沙羅という年上の恋人の助けも借りたにせよ)夜の海を泳ぎます。この突然一人で放り出された夜の海を泳ぐという行為こそ「グリーフケア」そのものでした。その意味で、つくるにとって沙羅こそがグリーフ・カウンセラーであったと言えます。
そう、わたしは本書を「グリーフケア文学」であると思いました。タイトルにある「巡礼」とは「グリーフケア」の別名にほかなりません。