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一条真也
「ミャンマーの火葬場と日本人墓地
〜お釈迦様の生誕地で安らかに」
こんにちは、一条真也です。
前回、ミャンマーのお話をしましたが、その続きです。
4月12日、その日最大の目的地である「ビルマ日本人墓地」に向かう途中で、わたしはミャンマーを代表する火葬場に立ち寄りました。
かつてはラングーンと呼ばれた旧首都ヤンゴン市の火葬場です。
2本の白い煙突が印象的な火葬場ですが、1日に20人~30人の火葬が可能だそうです。 日本映画「遺体 明日への十日間」では、日本の東北の火葬場が1日に数体の火葬しか出来ないために苦悩する人々の姿を描いていました。それからすると、1日30人というのは画期的です。
ヤンゴン市の人口は約450万人ですが、ここと同程度の火葬場がもう1ヵ所あるそうです。
この火葬場では、宗教儀礼としての葬儀も行われます。
わたしが訪れたとき、ちょうど2件の葬儀が行われていました。
会場を覗くと、シンプルなガーデンチェアのような椅子が並んでいました。前方には遺体を入れた透明のガラスケースがあり、傍らで数人の僧侶が経を唱えていました。
葬儀会場のすぐ横には冷凍室がありました。葬儀が終了すると、いったんここに運び込むようです。それから、焼却場へと向かうのでしょう。
2件の葬儀のうち、65歳の女性の葬儀がありました。
その女性には、娘と息子がそれぞれ1人ずついたようです。
娘さんは、母親の遺体を前にして狂ったように泣き叫んでいました。また、息子さんのほうは気絶したのか、友人たちに両脇から支えられていました。わたしは、これほど強く悲しみを表現する遺族を久々に見ました。どの国でも、どの民族でも、愛する人を亡くした人の悲しみは同じです。上座部仏教の国では葬儀に対する関心が薄いとされていますが、今日わたしが目撃した葬儀には非常に考えさせられました。わたしは、持参していた数珠をもって合掌し、2人の故人の御冥福をお祈りしました。
火葬場を後にするとき、煙突から黒い煙が出ていました。白い煙突から黒い煙が出るさまを見ながら、わたしは「ミャンマーにグリーフケアが導入される日が来るのだろうか」などと考えました。
火葬場を訪れた後、わたしは念願だった「ビルマ日本人墓地」参拝を果たしました。
ここには太平洋戦争のビルマ戦線で亡くなった方々の墓地が並んでいます。
じつに19万人に及ぶ日本人がビルマで命を落としたのでした。
「日本人墓地」と書かれた門を開くと、目に眩しいほど色彩の豊かなブーゲンビリアの花々がわたしたちを迎えてくれました。中に入ると、右脇に2体のおだやかな顔をした仏像があります。
ビルマ日本人墓地は、正式には「エーウィ日本人墓地」といって、ヤンゴンから車で30分ほどの距離の北オカラッパにあります。 もともとはヤンゴン市タモエ地区チャンドゥにありましたが、「ヤンゴン市都市計画により、ヤンゴン空港のさらに奥に移転したのです。
チャンドゥ日本人墓地には、明治時代から自然と日本人の墓が集まってきたようです。日本とミャンマーの歴史的関係というと、『ビルマの竪琴』や「インパール作戦」に代表される太平洋戦争がまず思い浮かびます。しかし、実際にはもっと古くからビルマには日本人が来ていました。
明治期の墓は女性、それも長崎県をはじめとする九州の出身者が多いのですが、彼女たちは、いわゆる「からゆきさん」と呼ばれた人々です。1910年前後には数百人の「からゆきさん」がビルマで生活していたそうです。九州の山村から、はるばる異国の地までやってきた若い娘たちは、幾多の辛苦を舐めながら、ビルマで生を終えました。
チャンドゥに日本人墓地が正式に開かれたのは昭和15年といいます。もちろん軍人の墓が圧倒的に多いですが、医師などの職業が書かれた人たちの名前も目にします。
歴史上の日本とミャンマーの関係が浮かび上がってくるようです。
チャンドゥから北オカラッパに移転した日本人墓地は、3500坪に及ぶ広大な面積を有します。
あちらこちらに、「英霊の墓」「家族が建てた碑」「無縁仏」などが建立されています。その他、都道府県別の慰霊碑もあり、「福岡県ミャンマー戦没者慰霊碑」というのもありました。
比較的最近亡くなった日本人の墓もあります。
「戦友と共にここに眠る」と記された墓は、2009年に逝去された故・稲田清氏のものです。
また、『ビルマの竪琴』の主人公である水島上等兵のモデルになった故・中村一雄氏の墓もあります。中村氏は2008年に逝去され、墓には「祈世界平和」と大きく記されています。この方は、戦争から帰った後は曹洞宗雲昌寺の大和尚になられた方です。それらの墓や慰霊を見ていると、それぞれの方々の人生ドラマを垣間見たようで、いろいろと考えさせられました。
そして、日本人墓地の一番奥には「ビルマ平和記念碑」が建てられています。
1981年(昭和56年)、日本の厚生労働省が戦没者慰霊事業として「ビルマ平和記念碑」をチャンドゥ日本人墓地に建立しました。碑には、「さきの大戦においてビルマ方面で戦没した人々をしのび平和への思いをこめるとともに日本ビルマ両国民の友好の象徴としてこの碑を建立する」と記されています。ヤンゴン市政府の要請により、1998年(平成10年)に北オカラッパ地区、エーウィ日本人墓地内に移転しました。「ビルマ平和記念碑」は、今年1月にミャンマーを訪問した麻生太郎副総理兼財務相が参拝したことでも知られます。わたしも、記念碑の前で数珠をもって合掌し、鎮魂と平和の祈りを捧げました。
記念碑の他にも日本人墓地に散在する多くの墓や慰霊塔を眺めながら、わたしは「こんなに遠い異国の地まで日本から来て、さぞ心細かっただろう。そして、帰国できなかったのはさぞ辛かっただろう」と思いました。明治の「からゆきさん」のことも、昭和の兵隊さんのことも、その他のすべてのミャンマーで亡くなった日本人のことが心に浮かんできて、胸がいっぱいになりました。わたしは合掌しながら、「でも、このビルマの地は、お釈迦様の生誕地に近く、また尊い教えにも近い上座部仏教の国ですよ。みなさん、この南の楽園で、どうか、安らかにお眠り下さい」と心からの祈りを捧げました。
そして、次の歌を心を込めて詠みました。
"ふるさとを遠く離れて眠る地は仏陀に近き南方楽土"
それにしても、ブーゲンビリアの花が美しかったです。
この世のものとは思えぬほどの花の美しさに、ここが本物の楽土のように思えました。
この日本人墓地に眠るすべての方々の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。
2013.5.15