第12回
一条真也
「思いやりがすべての基本」
1年間にわたって『論語』についてお話ししてきましたが、今回で最終回となります。
孔子が一番言いたかったことは「思いやり」の大切さではないでしょうか。「思いやり」をブッダは「慈悲」、イエスは「隣人愛」として説きましたが、孔子においては「仁」でした。
「仁」は、儒教において最高の徳目とされています。『論語』には「仁」がたくさん出てきますが、仁という言葉自体は孔子以前にも使われており、『詩経』にある古い歌では男性の立派さ、美しさを表す語として用いられていました。孔子はこの仁を、より広く深く進化させました。『論語』には、次のようにあります。
「樊遅、仁を問う。子曰く、人を愛す」〈顔淵篇〉
「仁とは何か」という弟子の質問に対して、孔子は「人を愛することだ」と答えています。
また、『論語』には次の言葉もあります。
「子貢、問うて曰く、一言にして以て終身これを行なうべき者ありや。子の曰わく、其れ恕(じょ)か。己れの欲せざる所、人に施(ほどこ)すこと勿(な)かれ」〈衛霊公篇〉
「生涯それだけを実行すればよい、一言があるだろうか」と弟子が尋ねたとき、孔子は「まあ恕だね。自分の望まないことは人にしむけないことだ」と答えました。この「恕」も「思いやり」のことです。あるいは、曾参が「夫子の道は忠恕のみ」と述べた「忠恕」もこれと同じで、真心からの思いやりも仁であると言えるでしょう。このように、孔子が唱えた「仁」の重要な側面として、愛とか思いやり、あるいは真心からの思いやりと表現できるものがあり、これは愛の仁=仁愛などと呼ばれています。
その一方で、『論語』には次の言葉もあります。
「顔淵、仁を問う。子曰く、己に克ちて礼に復るを仁と為す」〈顔淵篇〉
自己の私心を克服して礼に立ち戻ることが仁だ、とも孔子は説いています。厳しく自己規制して規範を守ることも仁なのです。
孔子は、人間が「社会の中で幸せに生きる」方法を考え続けた人です。そして、「仁」という思いやりこそ、すべての人が持つべき心のあり方であると思い至りました。ただし、思いやりは目に見えません。それを目に見せる方法こそが、挨拶やお辞儀といった「礼」です。
そう、仁は「こころ」であり、礼は「かたち」。仁と礼があれば、人は幸せに生きていける。これが孔子のメッセージなのです。