第5回
佐久間庸和
「すべての儀式は卒業式」
北九州市の成人式は「成人祭」と名づけられている。今年は1月13日に開かれたが、テーマは「20年分の感謝と一生分の自由と責任をあなたに」だった。
例年通り、会場は八幡東区のスペースワールドだったが、式典で挨拶に立った北橋健治市長は「この日を大人への一歩を踏み出す区切りとし、支えてくれた人たちへの感謝を伝えるチャンスにしてほしい」と述べた。
振り袖やスーツに身を包んだ7615人の新成人たちは、さぞかし晴れやかな思いだったことだろう。その中には、わたしの長女の姿もあった。
現在は大学2年生で東京に住んでいる長女は、高校までは北九州市内の学校に通った。久々に再会した小学校、中学・高校の同級生たちと一緒に撮影したデジカメの画面を見せながら、「みんなに会えて、楽しかったよ」
と、本当に嬉しそうだった。振り袖で着飾った娘の姿を見ると、親としても、さまざまな思いがこみ上げた。長女が生まれた時をはじめ、多くの場面が心に浮かんできて胸がいっぱいになった。
わたしにはもう一人、中学1年生の娘がいる。昨年の春、次女の小学校の卒業式が行われた。そこで、わたしは保護者代表として謝辞を述べた。そのとき、「卒業式は深い感動を与えてくれる」と痛感した。それは、人間の「たましい」に関わっている営みだからではないかと思った。
成人式も、その本質は卒業式に似ていると思う。というよりも、この世のあらゆるセレモニーとはすべて卒業式ではないだろうか。七五三は乳児や幼児からの卒業式であり、成人式は子どもからの卒業式。そう、通過儀礼の「通過」とは「卒業」のことなのである。
結婚式も、やはり卒業式であろう。なぜ、
昔から新婦の父親は結婚式で涙を流すのか。
それは、結婚式の本質が卒業式であり、校長である父が家庭という学校から卒業してゆく娘を愛しく感じるからである。そして、葬儀こそは「人生の卒業式」だ。
じつは、新年早々に妻の父親、つまり義父が亡くなり、葬儀をあげた。家族を心から愛し続けた義父は、77年の人生を堂々と卒業していった。わたしは、喪家の一員として葬儀に参列しながら、「死」はけっして不幸な出来事ではなく、人生を卒業することなのだとしみじみと思った。
わずか1週間の間に家族の葬儀と成人式が行われ、非常に慌しい中にも「家族」というもののありがたさ、大切さを強く感じた。「縁」という目に見えない人生の宝物を実体化して見えるようにするものこそ冠婚葬祭なのだろう。