第7回
一条真也
「となりのアリさん」

 

 今回は、福岡県福岡市に住む42歳の女性、Fさんからのエピソードをご紹介します。
 今からもう10年以上前の話だそうです。 その当時、Fさん一家はアメリカに在住していました。日本にいるFさんのお母さんとの連絡はもっぱら国際電話。渡米後、家を探して電話をつなぎ、やっと日本と国際電話ができるようになりました。その記念すべき最初の会話は、Fさんのお母さんと、Fさんの娘さん、つまり祖母と孫娘の間で交わされました。
 「ばーちゃん、隣のアリさんがね...」
 Fさんの娘さんが電話で、おばあちゃんに語りかけます。電話先から、おばあちゃんの驚いた声が聞こえます。
 「何ね、アメリカにもアリが出たとね」
 Fさんは、ぷっと吹き出してしまいました。
 娘さんが話しているアリさんというのは、昆虫のアリではありません。Fさん一家の住むアパートのお向かいさんで、イラン人の夫婦なのです。ちょうど、日本の祖父母と同じくらいの年齢の夫婦で、Fさんのお子さんたちをとてもかわいがってくれたそうです。
 ほとんど年子状態の3人の幼子を伴っての海外暮らし。一人でてんてこ舞いのFさんは時々大声で怒ったり、また慣れない暮らしでのストレスのためか、子どもたちも訳もなく泣く事が多かったそうです。
 そんな時、ベランダにそっと差し出されるキャンディー、玄関口に置かれたバナナなど、アリさんのマジックはいつもFさん一家を慰めてくれました。夜中に旅先から持ち帰った雪を家の前にそっと置いてくれたこともありました。 
 アメリカでの5年間、Fさん一家はアリさん夫婦にたくさんの愛をもらったそうです。それは、異国に暮らす者同士の無言の励まし合いでもありました。
 魚の臭いが苦手なアリさんは、魚料理の後はFさん宅にはしばらく近付けませんでした。イランの正月料理は、Fさんたちの口には合いませんでした。湾岸戦争の時に渡米したのだというアリさんは帰る国がなかったそうです。
 両家族は同じ時期に引っ越し、その後、アメリカで9・11同時多発テロが起きました。イラン人のアリさん夫婦はイスラム教徒でした。
 最後に、Fさんは次のように書いていました。「今となっては音信不通だが、お互いの心の中にはいつまでも生きていると信じている」
 隣人の絆は、国も民族も宗教も越えるのです。