おかげさまで、わが社も来年で45周年を迎える。もちろん、世の中には創業100年を超えるような企業もたくさん存在している。特に、葬儀社には非常に歴史の長い会社も多い。そういった会社は歴史を刻み、伝統をつけてきているわけだ。
この「伝統」という考え方は、儒教における「孝」の思想に関わっている。
私は孔子とドラッカーの二人をこよなく尊敬しているが、この二人は、「死」のとらえ方において共通していると思う。正確には「不死」のとらえ方といったほうがよいかもしれないが。
そして、そこには企業が存続していくための究極のマネジメント思想があるのではないかと思う。
孔子が開いた儒教における「孝」は、「生命の連続」という観念を生み出した。日本における儒教研究の第一人者である大阪大学名誉教授の加地伸行先生によれば、祖先崇拝とは、祖先の存在を確認することであり、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたことになる。また、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は存続していくことになる。私たちは個体ではなく一つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけだ。つまり、「孝」があれば、人は死ななくなるのである。
加地先生によれば、「遺体」という言葉の元来の意味は、死んだ体ではなく、文字通り「遺した体」という意味だという。つまり本当の遺体とは、自分がこの世に残していった身体、すなわち子なのだ。
親から子へ、先祖から子孫へ、「孝」というコンセプトは、DNAにも通じる壮大な生命の連続ということになる。孔子は明らかにこれに気づいていた。そして、2500年後の日本で加地先生が再発見されたわけである。これも一種の「知の伝統力」と言えるだろう。
一方、ドラッカーは、著書の書名にもなった「会社という概念」について考え抜いた(現在は『企業とは何か』の題名でダイヤモンド社から新訳が出ている)。まさにこの「会社」という概念も「生命の連続」に通じる。
世界中のエクセレント・カンパニーやビジョナリー・カンパニーやミッショナリー・カンパニーというものには、いずれも創業者の精神が生きている。エジソンや豊田佐吉やマリオットやディズニーの身体はこの世から消滅しても、志や経営理念という彼らの心は会社の中に綿々と生き続けているのだ。
重要なことは、会社とは血液で継承するものではなく、思想で継承すべきものであるということ。創業者の精神や考え方をよく学んで理解すれば、血のつながりなどなくても後継者になりうる。むしろ創業者の思想を身にしみて理解し、指導者としての能力を持った人間が後継者となったとき、その会社も関係者も最もよい状況を迎えられるのではないだろうか。
逆に言えば、超一流企業とは創業者の思想をいまも培養して保存に成功しているからこそ、繁栄し続け、名声を得ているのかもしれない。
もちろん、会社や組織の発展には、「継承」とともに「革新」というものが求めらるのだが。いずれにせよ、孝も会社も、人間が本当の意味で死なないために、その心を残す器として発明されたものではなかったか。
陽明学者の安岡正篤は、「孝」とは連続や統一を意味すると述べている。「老」すなわち先輩・年長者と、「子」すなわち後進の若い者とが断絶することなく、連続して一つに結ぶのである。
そこから「孝」という字ができ上がった。つまり、「孝」=「老」+「子」。そうして先輩・年長者の一番代表的なものは親であるから、親子の連続・統一を表わすことに主に用いられるようになったわけだ。
人間が親子・老少、先輩・後輩の連続・統一を失って疎隔・断絶すると、どうなるのか。個人の反映はもちろんのこと、国家や民族の進歩・発展もなくなってしまうのである。
もともと、冠婚葬祭という事業そのものが「孝」をコンセプトとする伝統的な産業であると言える。結婚式ならびに葬儀にあらわれたわが国の儀式の源は、小笠原流礼法に代表される武家礼法に基づくが、その武家礼法の源は『古事記』に表現されている。
冠婚葬祭業は、時代がどんなに変わっても日本人にとって必要な産業である。伝統ある事業は普遍性にある事業であり、その営みを長く続けることによって、強固な伝統力が生まれる。価値観が揺れる時代に、最も力を発揮するものこそ、伝統力ではないだろうか。