第11回
一条真也
「月あかりに浮かぶ故人の面影」

 

 長年の念願だったグリーフケア・サポートの会をスタートしました。愛する方を亡くされた、ご遺族の方々のための会です。「月あかりの会」という名前にしました。
 わたしは月を見ながら死者を想うと、本当に故人の面影がありありとよみがえってきます。
 月こそ「あの世」であり、死者は月へ向かって旅立ってゆくと思います。そのわけをお話しましょう。
 世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生きていました。そして、死後への幸福なロマンを持っていました。その象徴が月です。彼らは、月を死後の魂のおもむくところと考えました。月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのです。
 多くの民族の神話と儀礼において、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然でしょう。
 人類において普遍的な信仰といえば、何といっても、太陽信仰と月信仰のふたつです。太陽は、いつも丸い。永遠に同じ丸いものです。それに対して月も丸いけれども、満ちて欠けます。この満ち欠け、時間の経過とともに変わる月というものは、人間の魂のシンボルとされました。
 つまり、絶対に変わらない神の世界の生命が太陽をシンボルとすれば、人間の生命は月をシンボルとします。人の心は刻々と変化変転します。人の生死もサイクル状に繰り返します。死んで、またよみがえってという、死と再生を繰り返す人間の生命のイメージに月はぴったりなのです。
 地球上から見るかぎり、月はつねに死に、そしてよみがえる変幻してやまぬ星です。また、潮の満ち引きによって、月は人間の生死をコントロールしているという事実があります。
 さらには、月面に降り立った宇宙飛行士の多くは、月面で神の実在を感じたと報告しています。月こそ神のすみかであり、天国や極楽そのもののイメージとも重なります。
 さて、「葬式仏教」という言葉があるくらい、日本人の葬儀や墓、そして死と仏教との関わりは深く、今や切っても切り離せませんが、月と仏教の関係も非常に深いのです。
 お釈迦さまことブッダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったそうです。ブッダは、月の光に影響を受けやすかったのでしょう。言い換えれば、月光の放つ気にとても敏感だったのです。
 わたしは、やわらかな月の光を見ていると、それがまるで「慈悲」そのものではないかと思うことがあります。ブッダとは「めざめた者」という意味ですが、めざめた者には月の重要性がよくわかっていたはずです。「悟り」や「解脱」や「死」とは、重力からの解放です。
 東南アジアの仏教国では今でも満月の日に祭りや反省の儀式を行ないます。仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だと言えるでしょう。太陽の申し子とされた日蓮でさえ、月が最高の法の正体であり、悟りの本当の心であり、無明つまり煩悩や穢土を浄化するものであることを説きました。日蓮は、「本覚のうつつの心の月輪の光は無明の暗を照らし」「心性本覚の月輪」「月の如くなる妙法の心性の月輪」と述べ、法華経について「月こそ心よ、華こそ心よ、と申す法門なり」と記しています。日蓮も月の正体を知っていたようです。  仏教のみならず、神道にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、あらゆる宗教の発生は月と深く関わっています。「太陽と死は直視できない」という有名なラ・ロシュフーコーの言葉があるように、人間は太陽を直視することはできません。しかし、月なら夜じっと眺めて瞑想的になることも可能です。 
 あらゆる民族が信仰の対象とした月は、あらゆる宗教のもとは同じという「万教同根」のシンボルなのです。キリスト教とイスラム教という一神教同士の対立が最大の問題になっている現代において、このことは限りなく大きな意味を持っています。
 いつか月にお墓をつくって、地球上の人類が仲良く月を見上げて亡くなった人々のことを思い出す。そんな平和な時代が来れば素晴らしいと、わたしは思っています。