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一条真也
第三則「知識力」

 

 今月は、「知識力」についてお話したい。「ナレッジマネジメント」という言葉があるように、知識はビジネスにおいて重要なキーワードである。
 ピーター・ドラッカーといえば、「マネジメント」という考え方そのものを発明した経営学者で、ビジネス界に最も影響力を持つ思想家でもある。 
 そのドラッカーが幾多の著書で一貫して唱えたのが「知識社会」の到来である。7,000年前、人類は技能を発見した。その後、技能が道具を生み、才能のない普通の者に優れた仕事をさせ、世代を超えていく進歩を可能にした。技能が労働の分業をもたらし、経済的な成果を可能にしたわけだ。
 紀元前2000年には、地中海東部の灌漑文明が、社会、政治、経済のための機関と、職業と、つい200年前までそのまま使い続けることになった道具のほとんどを生み出した。 まさに技能の発見が文明をつくり出したのである。そして今日、再び人類は大きな発展を遂げた。仕事に知識を使いはじめたのだ。ドラッカーは、仕事の基盤が知識に移ったと述べている。
 ここでいう知識とは、仕事のもとになる専門知識のことである。専門知識の上に成り立つ職業といえば、医師や弁護士や公認会計士やコンピュータプログラマーなどがすぐ思い浮かぶが、実は冠婚葬祭業も知識産業であると私は思っている。たとえば厚生労働省認定葬祭ディレクター技能審査。この試験用を受けるためには仏教の各宗派の教義・作法はもちろん、宗教全般、儀礼全般に医療、法律、税務といった分野まで勉強しなければならない。
 ドラッカーによれば、いかなる知識も他の知識より上位にあることはないという。知識の位置づけは、それぞれの知識に固有の優位性や劣位性によってではなく、共通の任務に対する貢献によって決定されるというのだ。
 「哲学は科学の女王」という言葉があるけれども、腎臓結石の除去には論理学者よりも泌尿器専門医を必要とする。
 葬儀という究極のサービス業における専門的知識は、けっして医師・弁護士・公認会計士といった人々の知識に劣るものではない。というより、葬祭ディレクターそのものが、医師や弁護士や公認会計士と同じ意味での知識産業ではないだろうか。
 「知識」は、「イノベーション」の本質にも関わっている。オーストリアの経済学者シュンペーター(1883〜1950)やドラッカーが強く提唱したイノベーションは、最初に「技術革新」と訳され、それが定着してしまったために、どうも技術と結びつけられがちである。しかし、その意味するところはもっと広く、新しい思考や問題意識に総合的に関わっている。
 というのも、プロフェッショナルとしての専門知識を備えた知識労働者たちが、価値の創造としてのイノベーションを呼び込むのである。
 ドラッカーも『創造する経営者』(ダイヤモンド社)のなかで、「知識労働者は、すべて企業家として行動しなければならない。知識が中心の資源となった今日においては、トップだけで成功をもたらすことはできない」(上田惇生訳)と述べている。ただし、ドラッカーのいう「知識労働者」の中に「サービス労働者」は含まれていない。彼は、ともに継続学習が必要であるとしながらも知識労働者とサービス労働者を区別する。
 私はドラッカーを心の底からリスペクトしながらも、サービス労働者も知識労働者になりうるという点で、ドラッカーと考えを異にする。特に冠婚葬祭業は、知識産業であると確信する。
 古代中国の冠婚葬祭集団であった儒家は最高の知識集団でもあった。その元祖は、もちろん孔子である。儒教は、「仁義礼智信」のいわゆる「五倫」を打ち出した。そのなかにある「智」とは、「知」とどう違うのか、ご存知だろうか。
 「知」とは、自分の知っていることと知らないことの区別を知っていること。古代ギリシャの哲学者ソクラテスの「無知の知」にも通じる考え方だ。そして、「智」とは、単なる知識を超えた智慧のことで、ずばり物事の善悪の区別を知ることである。
 コンプライアンスの重要性が叫ばれているいま、イノベーションを可能にする知識力も大切だが、何より善悪を知る「智」の力、いわば「智慧力」が強く求められるといえよう。