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一条真也
第二則「管理力」
今月は、「管理力」についてお話したい。「管理」という言葉は、一般に「マネジメント」と呼ばれる。
マネジメントという考え方は、経営学者ピーター・ドラッカーが発明したものとされている。ドラッカーは、大著『マネジメント』(ダイヤモンド社)で、「マネジメントは方向づけを行なう。使命を決める。目標を定める。資源を動員する」(上田惇生訳)と定義したうえで、「マネジメントは、これらの機能を果たすべく行動する。仕事を組織し、働く人たちに成果をあげさせる」(同訳)と述べている。
ドラッカーはまた、『新しい現実』(ダイヤモンド社)で、こう述べている。「マネジメントとは、人にかかわるものである。その機能は人が共同して成果をあげることを可能とし、強みを発揮させ、弱みを無意味なものにすることである。」(同訳)
このように、マネジメントとは一般に誤解されているような単なる管理手法などではなく、徹底的に人間に関わってゆく人間臭い営みなのである。
にもかかわらず、わが国のビジネスシーンには、ナレッジマネジメントからデータマネジメント、はてはミッションマネジメントまで、ありとあらゆるマネジメント手法がこれまで百花繚乱のごとく登場してきた。
その多くは、ハーバードビジネススクールに代表されるアメリカ発のグローバルな手法である。
もちろん、そういった手法には一定の効果はあるが、日本の組織では、いわゆるハーバードシステムやシステムアナリシス(分析)式の人間管理は、なかなか根付かないのもまた事実である。
それは日本人には情緒的部分がたぶんに残っているために、露骨に「おまえを管理しているぞ」ということを技術化されれば、されるほうには大きな抵抗があるのだと思う。
日本では、まだまだ「人生意気に感ずる」ビジネスマンが多いといえるだろう。理屈抜きに「あの人の下で仕事をしてみたい」と思うビジネスマンが多く存在する。そして、そう思わせるのは、やはり経営者や上司の人望であり、人徳であり、人間的魅力だろう。
会社にしろ、学校にしろ、病院にしろ、NPOにしろ、すべての組織は結局、人間の集まりにほかならない。人を動かすことこそ、経営の本質なのだ。
つまり、「経営通」になるためには、まず「人間通」にならなければならないのである。では、「人間通」のマネジメントとはいかにあるべきか。
いまから約2,500年前、中国に人類史上最大の人間通が生まれた。すなわち、孔子(BC551〜BC479)である。ドラッカーが「最高の経営通」なら、孔子は「最大の人間通」であると私は思う。
ドラッカーが、「経営戦略」「目標管理」「顧客第一」「情報化」「知識労働者」などの数多くの経営コンセプトを生んだように、孔子は「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」といった人間の心にまつわるコンセプト群の偉大な編集者だった。彼の言行録である『論語』は東洋における最大のロングセラーとして多くの人々に愛読されてきた。
特に西洋最大のロングセラー『聖書』を欧米のリーダーたちが心の支えとしてきたように、日本をはじめとする東アジア諸国の指導者たちは『論語』を座右の書として繰り返し読み、現実上のさまざまな問題に対処してきたのだ。
40歳を迎えたとき、私は「不惑」という言葉の出典である『論語』を40回読んだ。その際、『論語』はマネジメントの書であり、ドラッカーは現代の孔子であることに気づいた。
経営者やリーダーといった存在は、結局のところ「君子」を目指さなければならないといえる。君子などというと、過ちのない完璧な人間のように思われるが、「子曰く、君子は上達す、小人は下達す」とあるように、努力によって上達するものが君子なのだ。
孔子は、意志さえあれば誰にでも上達できるのであり、できないのは、その本人に上達する意志がないのだと述べた。上達して君子に至れば、他人からの「信」を得ることができる。孔子は、すべての人から信頼されたという。信頼されたがゆえに人々は彼を迎え、その意見を聞いた。いずれの社会であれ、どのような体制であれ、信頼というものがなければ、人間はその社会において求められない。「管理力」とは、「信頼力」の別名なのだ。