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一条真也
鎮魂としての歌

 

戦国武将は合戦の前に歌会を開いたという。そこで詠んだ歌を神社に奉納し、戦勝祈願をした。歌を奉納して出陣すれば、その戦いに勝てるという信仰があったわけだ▼日本には、言葉に魂が宿るという「言霊」信仰が古来よりあった。和歌を詠むことはその最たるものであった▼歌に込めるのは必勝祈願だけではない。国文学者の折口信夫は「歌は鎮魂である」と言った。太平洋戦争に従軍した息子が硫黄島で戦死した。折口は亡き子のために多くの鎮魂歌を詠んでいる▼硫黄島といえば、総指揮官の栗林忠道が有名である。最後は部下たちとともに散った栗林は、「国の為重きつとめを果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき」と、辞世歌を詠んだ▼戦意を損なうという理由で、大本営は「散るぞ悲しき」を「散るぞ口惜し」に改変した。平成六年、天皇は初めて硫黄島の土を踏み、「精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき」と詠んだ。大いなる鎮魂の歌であった▼今年も新春恒例の「歌会始めの儀」が皇居で開催された。「生」をお題に、多くの秀歌が披露されたが、中学生・北川光君は修学旅行で訪れた広島を詠んだ。「熱線の人がたの影くつきりと生きてる僕の影だけ動く」。やはり歌は鎮魂である。(一条)
2009年2月25日