第6回
一条真也
「花火は、夜空のスペクタクル」
花火といえば、日本の夏の風物詩ですね。わたしは大の花火好きで、毎年、関門海峡を1万発の花火で彩る海峡花火大会を楽しみにしています。勇壮な関門橋を挟み、本州と九州の両岸から大量の花火が打ち上げられる光景はまことにドラマティックです。
日本人は桜と美人と富士山を好みます。桜は散ってしまうし、美人は薄命、富士山の雄大な姿はいつも眺められるわけではありません。はかないものほど美しく、見る者の心を打つのでしょう。花火だって同じです。華麗に天空に花咲き、一瞬にして消えていく。この消耗の過程が美を構成し、あとには何も残らない完全消耗の芸術だと言えるのではないでしょうか。
日本の夏の風物詩である花火ですが、じつはヨーロッパ生まれです。その起源は古代ギリシャ・ローマの時代にさかのぼるとの説もありますが、現在のような花火は火薬の発明以後で、13世紀にイタリアのフィレンツェで始まったとされています。ヨーロッパ諸国に伝わったのは16世紀です。
主に戦争の終結の祝賀会などで打ち上げられたといいますから、花火は「平和」と結びついていたことになります。たとえば、1748年にオーストリアの王位をめぐって、マリア・テレジア王女とヨーロッパ諸国が対立して戦ったオーストリア継承戦争が終結して、平和条約が調印されました。そのとき、盛大な祝賀会が各地で催されて花火も大いに打ち上げられました。
特にマリア・テレジアを助けた数少ない国のひとつだったイギリスの喜びはひとしおで、国王ジョージ2世はロンドンのグリーンパークで祝賀花火大会を主催しました。ちなみにイギリスで活躍していたヘンデルが音楽を担当し、大会を大いに盛り上げました。名曲「王宮の花火の音楽」は、このときに作曲したものです。彼はバロック音楽を代表する一人ですが、花火はバロック精神そのものが最も好んだものでした。すなわち花火は、瞬間性、はかなさ、幻想性、華麗さ、技巧といった現象のシンボルだったのです。
イタリアで生まれヨーロッパで流行した花火が日本に伝わったのは、1543年の鉄砲伝来とともに火薬の配合が伝えられた後です。
1585年の夏、皆川山城守と佐竹衆の対陣のとき、慰みにそれぞれ敵陣に花火を焼き立てたことが見えるのが最も古い記録です。
江戸の名物として知られたのが「両国の花火」です。1731年に全国的な凶作と江戸の疫病流行で多くの死者が出たため、幕府が慰霊と悪疫退散をかねて両国橋近くで水神祭を催しましたが、そのときに両岸の水茶屋が余興として献上花火を上げたのが始まりとされています。花火は元禄時代以後、江戸で次第に豪華になっていきます。
以前、東京に住んでいた頃に多摩川の花火大会に出かけたことがあります。もう20年近く昔になりますが、この花火大会が何ともすごかった。はじめは多摩川の東京側の土手にゴザを敷き、幕の内弁当を肴に缶ビールを飲みながら、ほろ酔い気分で花火を楽しんでいました。
すると、だんだん空模様がおかしくなり、暗雲がたちこめてきました。雲があったほうが花火も映えるからと別に気にしないで見物を続けていたら、そのうち稲妻が光り出しました。それも花火と花火の間に光るのです。花火、稲妻、花火、稲妻...と、それぞれに夜空を照らし上げ、そんな状態が小一時間も続きました。まさに、空前のスペクタクル!
たくさんの見物客はすっかり興奮して、しまいには「今のは稲妻が勝っていた」「今のは六・四で花火の勝ち」などと言い出す始末です。そして最後の仕掛け花火「ナイアガラの滝」が終わった瞬間、雨がザァーッと降り始め、すぐ近くに雷が落ちたのです。
雷とは「神鳴り」であり、神の怒りであると昔から考えられていました。おそらく地上から人間が変なものを打ち上げてくるので、神様が最初は稲妻で張り合ったものの、ナイアガラの滝を見て敗北を知り、怒って雷を落としたのだと思いました。こんな不思議な体験は生まれて初めてでしたが、夜空を舞台にした神と人との競演のおかげで花火大会が何倍にも楽しめました。
今からもう19年も前、1990年年7月26日の夜の出来事です。