孝のマネジメント
一条真也
「生命体の連続性を説く壮大なる観念」
私は、孔子とドラッカーの二人をこよなくリスペクトしています。仁義礼智忠信孝悌といったさまざまな徳目を発見した孔子という人間通、「目標管理」「選択と集中」「コア・コンピタンス」などマネジメントにおけるほとんどの概念を発明したドラッカーという経営通は、ともに人類史に残るスーパー・コンセプターでした。
孔子とドラッカーに共通する点として私が最も注目するのは、二人の「死」、正確には「不死」のとらえ方です。
孔子が開いた儒教における「孝」は、「生命の連続」という観念を生み出しました。祖先祭祀(さいし)とは、祖先の存在を確認することであり、祖先があるということは、そこから自分に至るまで確実に生命が続いてきたということです。また自分という個体は消滅しても、もし子孫があれば、自分の生命は存続します。親から子へ、先祖から子孫へ、孝というコンセプトは、DNAにも通じる壮大な生命の連続を示しているのです。
一方、ドラッカーには『会社という概念』という名著がありますが、この「会社」という概念も「生命の連続」に通じます。世界中の大企業には、いずれも創業者の精神が生きています。エジソンや豊田佐吉やデイズニーの身体はこの世から消滅しても、志や経営理念という彼らの心は会社のなかに綿々と生き続けているのです。会社とは血液ではなく、思想で継承すべきものなのです。血のつながりなどなくても、創業者の思想を身にしみて理解し、指導者としての能力を持った人間が後継者になったとき、その会社も関係者も最も良い状況を迎えられます。
昭和の碩学(せきがく)・安岡正篤は、著書『論語に学ぶ』の中で、疎隔や断絶とは正反対の連続・統一を表わす文字こそ「孝」であると明言しています。老=先輩・長者と、子=後進の若者とが断絶することなく、連続して一つに結ぶのです。「老」+「子」=「孝」。人間が親子・老少、先輩・後輩の連続、統一を失って疎隔、断絶すれば、個人の繁栄はもちろん、国家や民族の進歩・発展もなくなってしまいます。
たとえば革命でも、その成功と失敗はここにかかっています。わが国の明治維新は人類の革命史における大成功例とされていますが、その最大の要因は、先輩=長者、青年=子弟があらゆる面で密接に結びついていたことにありました。これこそが孝の真髄であり、すべてのマネジメントに通用するものでしょう。疎隔・断絶ばかりで連続・統一のない会社や組織に、イノベーションの成功などありえないのです。