智のマネジメント
一条真也
「知識よりも智慧によって自己を知る」
経営にとって真に重要なものは智慧です。智慧とは単なる知識ではありません。人間、自己、社会、宇宙などを心で悟り、そういうものに心が通じること。安岡正篤は、これが人間にとって一番大事であると述べました。
人間にとっての根本は、私たちが何を為すかということではなくて、私たちが何であるかを発見することです。財産をなした、出世した、ということと、その人がどういう人間か、いかにあるかということとは別なのです。運に恵まれなければ、また本人が欲しなければ、本質的に立派な人でも何も為さずに終わることもあります。
安岡正篤は陽明学の先達である熊沢蕃山の「自分は世の中に何も迹を残さず、名も残さずに終わりたい」という晩年の言葉に大いに共鳴したといいます。自分はどういう人間であるか、それを明らかにすることを「明明徳」(明徳を明らかにする)といいます。蕃山はそれに気づきました。今まで自分で自分がわからず、人生や宇宙というものがまったく暗黒であったが、学問によって、初めて眼を見開かされたのです。そして江戸時代において、明徳の学の最も活発で純真な姿を陽明学に見出し、そこに偉人・中江藤樹を発見しました。
中国で生れた陽明学は、日本に入って藤樹や蕃山をはじめ、山鹿素行、浅野内匠頭長直や大石内蔵助良雄、大塩平八郎、春日潜庵、河井継之助、玉木文之進、吉田松陰、西郷隆盛、乃木希典といった巨大な精神の山脈を作りあげていきました。数多くの宰相や大実業家を指導した昭和の碩学・安岡正篤もここに位置します。
その安岡はこう言います。現代人は単に知性によって物を知ることしかできない者が多い。しかし、そのような知識理論は誰でも習得し利用できる。そんなものは真の智とはいえない。
真の智は物自体から発する光でなければなりません。これが「悟り」です。したがって「悟らせる」「教える」の真義とは、活きた人格と人格との接触や触発をいうのであり、撃石火の如く、閃光に等しく、これを得て、初めて真の活き活きとした人物ができるのです。
つまり、全生命を打ち込んで学問すると、人間が叡智そのものになってゆくのです。学問を仕事や経営と言い換えてもよいでしょう。
仕事や経営に全生命を打ち込めば、己自身が光を発し、真の智が得られます。そして、真の智によって「自分はどういう人間であるか」を知った者とは、もはや人間通などを超越した叡智そのものなのです。