礼のマネジメント
一条真也
「人としてふみおこなうべき道を守る」
「礼」は儒教の神髄ともいえる思想です。それは後世、儒教が「礼教」と称されたことからもわかります。そもそも礼(禮)という字は「示」(神)と「豊」(酒を入れた器)からできており、酒器を神に供える宗教的な儀式を意味しています。古代には、神をはじめとして神秘力のあるものに対する禁忌の観念があったので、きちんと定まった手続きや儀礼が必要とされました。これが、礼の起源であるといわれます。
春秋・戦国時代からこうした礼の観念が変質し、拡大していきました。礼の宗教性は薄くなり、もっぱら人間が社会で生きていくうえで守るべき規範、つまり社会的な儀礼としての側面が強くなっていくのです。
互いに礼をするという習慣が薄れつつあることは、社会的に考えても大問題だと述べたのは安岡正篤です。人間はなぜ礼をするのか。それは、「吾によって汝を礼す。汝によって吾を礼す」ためだと彼は言います。簡にして要を得た言葉でしょう。自分というものを通じて人を礼する。その人を通じて自分を礼する。互いに相礼する。つまり、人間たる敬意を表し合うのです。
彼は「本当の人間尊重は礼をすることだ。お互いに礼をする、すべてはそこから始まらなければならない。お互いに狎れ、お互いに侮り、お互いに軽んじて、何が人間尊重であるか」と喝破します。
「経営の神様」といわれた松下幸之助も、何よりも礼を重んじました。彼は、世界中すべての国民民族が、言葉は違うがみな同じように礼を言い、挨拶することを、人間としての自然の姿、すなわち「人の道」であるとしました。
無限といってよい生命の中から人間として誕生し、万物の存在のおかげで生かされていることを思い、おのずと感謝の気持ち、「礼」の身持ちを持たなければならないと人間は感じたのではないか、と松下幸之助は推測しています。
ところが、最近になってその人間的行為である「礼」が行なわれなくなってきました。挨拶もしなければ、感謝もしない。礼は人の道、いわば「人間の証明」です。にもかかわらず、お礼は言いたくない、挨拶はしたくないという者がいる。 礼とは、そのような好みの問題ではありません。自分が人間であるか、猿であるかを表明する、きわめて重要な行為なのです。
ましてや経営や組織で一つの目的に向かって共同作業をするとすれば、当然その経営・組織のなかで互いに礼を尽さなければなりません。挨拶ができない、感謝の意を表せない、そんな社員は猿に等しいと言わざるをえないのです。