第15回
一条真也
「教養とは心を太らせること」

 

 福沢諭吉といえば、慶應義塾の創始者であり、偉大な教育者として知られています。その彼は、「心訓七則」という有名な言葉を残しています。本当は福沢本人が述べた言葉ではないとも言われているようですが、内容がすばらしいので、あえて紹介します。
 一、世の中で一番楽しく立派なことは、一生を貫く仕事を持つことである。
 一、世の中で一番みじめなことは、教養のないことである。
 一、世の中で一番さびしいことは、仕事のないことである。
 一、世の中で一番みにくいことは、他人の生活をうらやむことである。
 一、世の中で一番尊いことは、人に奉仕して決して恩を着せないことである。
 一、世の中で一番美しいことは、すべてのものに愛情を持つことである。
 一、世の中で一番悲しいことは、嘘をつくことである。
まず出てくるものは「仕事」です。人は仕事を持って社会と接します。そして、その仕事によって自分の存在を認めてもらう。さらには、仕事によって退屈にならずにすみ、人格も能力も鍛えられる。達成感や満足感も仕事が与えてくれるのです。会社員にとっての仕事の場とは会社です。つまり、会社とは自己実現の場なのです。
 そして、仕事には貴賎はありません。もし貴賎があるとすれば、その仕事に従事するその人の心にあるのです。大事なことは、仕事というものは自分のためだけではなく、仲間のため、家族のため、そして社会のために役立つものでなければならないということです。
 第2は「世の中で一番みじめなことは、教養のないことである」です。今月は、その「教養」についてお話したいと思います。
 経営学者のドラッカーは、21世紀社会は知識社会であると述べました。たしかにその通りでしょうが、一般に考えられている知識社会の「知識」は「情報」に近いニュアンスです。本当の「知識」とは、「教養」につながるものでなければなりません。
 日本における帝王学の第一人者であった安岡正篤によれば、中国の歴史では『三国志』が面白く、日本の歴史では幕末維新の話が面白いそうです。なぜ面白いかというと、その前の時代である後漢200年と徳川260年が世界史でも最高の文治社会だったために、登場人物がすべて一流の教養人であり、彼らの言葉のやりとりにすべて含蓄があり教養があるからだそうです。
 後漢の初代光武帝は「天下いまだ平らかならざるにすでに文治の志あり」と言われた人で、学問を大いに奨励したのみならず、全国にすぐれた学者や賢人を求めて政府に登用しました。そのために、『後漢書』は教養書として後世珍重されたのです。
 江戸時代もまた、大坂城落城の後は武をもって立つ道が閉ざされたため、学問だけが出世の道となりました。どんな貧しい書生でも勉強さえすれば、新井白石や荻生徂徠(おぎゅうそらい)のように国の政治をあずかる立場にも立てる社会だったのです。だから、若者の知識への貪欲さはその後の時代とは大きく違ったのです。
 江戸時代といえば、ここ最近、「江戸しぐさ」が大変なブームとなっています。江戸の町衆(まちしゅう)の間に広まった思いやりの作法ですが、そのキーワードに「お心肥(しんこやし)」があります。まさに江戸っ子の神髄を示している非常に含蓄のある江戸言葉のひとつです。
 その意味は、頭の中を豊かにして、教養をつけるといった意味です。ただし、江戸っ子のいう教養とは「読み書き算盤(そろばん)」だけのことではありません。本を読むだけではだめで、実際に体験し、自分で考えて、初めてその人の教養になるのです。人間はおいしいものを食べて身体を肥やすことばかりになりがちですが、それではいけません。立派な商人として大成するためには人格を磨き、教養を身につけること、すなわち心を肥やすことが大切なのです。
 元駐タイ大使で岡崎研究所所長の岡崎久彦氏によれば、明治の指導者と昭和初期の指導者の間にはある種の断絶があるといいます。そして、明治以降で本当の教養を備えた人物として、福沢諭吉、西郷隆盛、勝海舟、陸奥宗光、安岡正篤の五人の名をあげています。
 教養は人間的魅力ともなります。
 かのユリウス・カエサルは古代ローマの借金王でしたが、その原因の一つは、自身の書籍代だったそうです。当時の知識人ナンバーワンは哲学者のキケロと衆目一致していましたが、その彼もカエサルの読書量には一目置きました。 当時の書物は、高価なパピルス紙に筆写した巻物です。当然ながら高価であり、それを経済力のない若い頃から大量に手に入れたため、借金の額も大きくなっていったのです。カエサルは貪欲に知識を求めたのであり、当然、豊かな教養を身につけていたに違いありません。人類史上最も人気者の一人と言われる彼の魅力の一端に、その教養があったことは疑いもないでしょう。
 最後に、教養こそは、あの世にも持っていける真の富だと私は思っています。
 あの丹波哲郎さんは80歳を過ぎてからパソコンを学びはじめました。ドラッカーは96歳を目前にしてこの世を去るまで、『シェークスピア全集』と『ギリシャ悲劇全集』を何度も読み返していたそうです。死が近くても、教養を身につけるための勉強が必要なのです。
 モノをじっくり考えるためには、知識とボキャブラーが求められます。知識や言葉がないと考えは組み立てられません。死んだら、人は魂だけの存在になります。そのとき、学んだ知識が生きてくるのです。そのためにも、人は死ぬまで学び続けなければなりません。
 人格を高め、人間的魅力をつくる教養。教養は人間の心を肥やすもの、すなわち心の栄養、心のカロリーでもあるのです。私たちも、教養を身につけて、大いに心を太らせたいものですね。