第12回
一条真也
「お祝いの意味を考える」

 

 おかげさまで、株式会社サンレーは創立40周年を迎えました。これもひとえにサンレー会員の皆様のおかげでございます。心から感謝申し上げます。
 40周年にあたってはささやかな祝賀会を催しましたが、世間ではさまざまな祝賀会が開催されています。インターネットの検索サイトで「祝賀会」というキーワードを引いてみると、たちどころに数十万件ヒットします。その内容も、企業の創立の周年記念にはじまって、叙勲、受賞、出版記念、還暦などなど、実にバラエティに富んでいます。
 私の好きなポップス歌手のディーン・マーティンに「Everybody love somebody sometime」という名曲があります。日本語にすると「誰かが誰かに恋してる」となりますが、まさに今この瞬間にも、誰かが誰かを祝っているということになります。
 私はロータリークラブの会員ですが、世界各地のロータリークラブでは、毎月の会員の誕生日と結婚祝いを主要な行事と位置づけています。
 私は、「祝う」という営み、特に他人の慶事を祝うということが人類にとって非常に重要なものであると考えています。  なぜなら、祝いの心とは、他人の「喜び」に共感することだからです。それは、他人の「苦しみ」に対して共感するボランティアと対極に位置するものですが、実は両者とも他人の心に共感するという点では同じです。
 「他人の不幸は蜜の味」などと言われます。たしかに、そういった部分が人間の心に潜んでいることは否定できませんが、だからといって居直ってそれを露骨に表現しはじめたら、人間終わりです。社会も成立しなくなります。他人を祝う心とは、最高にポジティブな心の働きであると言えるでしょう。
 さて、私たちが人生で出会う「お祝い」は、結婚式だけではありません。三日祝い、お七夜、名づけ祝い、お宮参り、お食いぞめ、初誕生、初節句、七五三祝いなど、子どもの成長にあわせて、数多くのお祝いがあります。さらには成人式や長寿祝いも待っています。
 守礼之那(しゅれいのくに)・沖縄では「生年祝い」が盛んに行なわれます。十千十二支(じっかんじゅうにし)から出たもので、数え年13歳、25歳、37歳、49歳、61歳、73歳、85歳、97歳の人たちを旧暦正月の干支の日に祝います。つまり、戌年なら戌の日に祝うわけですで、自分が生まれた年から12年目毎に行なわれるのです。
また、その翌年には、ハリヤク(晴れ厄)という小さな祝いがやはり正月中に行なわれます。97歳のトシビィは「カジマヤー」といって大きな祝いをしますが、沖縄には77歳の「喜寿祝い」や99歳の「白寿祝い」の慣習は元来ありませんでした。
 カジマヤーとは、風に舞う風車のことです。97歳にもなると幼児に戻って風車をまわして遊ぶという純粋無垢な心をたたえたものです。なんと素敵な言葉ではありませんか。
 私は思うのですが、人生とは一本の鉄道線路のようなものではないでしょうか。山あり谷あり、そしてその間にはいくつもの駅がある。
 「ステーション」という英語の語源は「シーズン」から来ています。季節というのは流れる時間に人間が読点(とうてん)を打ったものであり、鉄道の線路を時間に例えれば、まさに駅はさまざまな季節ということになります。そして、儀礼を意味する「セレモニー」の語源も「シーズン」です。七五三や成人式、長寿祝いといった通過儀礼とは人生の季節、人生の駅なのです。
 それも、20歳の成人式や60歳の還暦などは、セントラル・ステーションのような大きな駅と言えるでしょう。各種の通過儀礼は特急や急行の停車する駅です。
 では、各駅停車で停まるような駅とは何か。
 私は、誕生日がそれに当たると思います。老若男女を問わず、誰にでも毎年訪れる誕生日。この誕生日を祝うことは、その人の存在価値を全面的に認めることに他なりません。
 別に受賞や合格といった晴れがましいことがなくとも祝う誕生日。それは、「人間尊重」そのものの行為です。サンレーでは、毎月の社内報に全社員の誕生日を掲載して、「おめでとう」の声をかけましょう、と呼びかけています。
 考えてみれば、会社の創立記念日というのも人間の誕生日のようなものです。この世に生を受け、ここまで育ってきたことを素直に感謝したいものです。
 冠婚葬祭においては、結婚式をはじめ、七五三、成人式、長寿祝いと、人生のあらゆる場面において「おめでとう」の言葉が発せられます。そして、私は「悲しみ」の儀式とされている葬儀もまた、その正体とは「お祝い」であると考えずにはおれません。
 約10万年前のネアンデルタール人の墓がトルコにあります。この墓から出土した化石を手がかりにして、考古学者はネアンデルタール人が死者を花の上に寝かせて埋葬していたことをつきとめました。このことから、ネアンデルタール人が「死」を祝い事とみなしていた、つまり、人間が死ぬということは別の世界に移り住むことだと考えていたのがよくわかります。
 ですから、葬儀とは、人生の卒業式であり、魂の引越し祝いなのです!日本人は人が亡くなると「不幸があった」などと言いますが、死なない人間はいません。必ず訪れる「死」が不幸であるなら、どんな生き方をしようが、人の人生そのものも不幸でしかないことになる。そんな馬鹿な話はありません!
 もともと古代の日本では、「祝(はぶ)り」も「葬(はぶ)り」も同じ意味でした。葬=祝であることを古代の日本人は知っていたのです。その真理をよみがえらせることこそ、サンレーの使命だと思っています。死を「不幸」と呼んでいるうちは、日本人は絶対に幸福になれないと思います。
 「月への送魂」をはじめとした、さまざまな試みによって、死が不幸ではなく、葬儀が送魂祝いとなるような時代をひらいていきたいと心から願っています。人の誕生から死まで、いたるところで「おめでとう」の声が行き交う社会、それが心ゆたかな社会、ハートフル・ソサエティであると信じています。