第4回
一条真也
「グランドカルチャーの世界」

 

 人は老いるほど豊かになります。そして豊かな高齢者が何より豊かに持っているのが時間です。時間にはいろいろな使い方があるでしょうが、「楽しみ」の量と質において、文化に優るものはありません。さまざまな文化にふれ、創作したり、観賞して感動したりすれば、右脳がフルに使われてグランドライフが輝いてきます。
 一般に、高齢者が増えれば経済的活力が低下するとよく言われます。私にはそうは思えないのですが、百歩譲って仮にそうだとしても、高齢者によって日本の文化が向上すればそれを補って余りがあります。経済成長のためには、自然、そして人間の心がいくら荒廃してもかまわないというのが従来の工業社会の考え方でしたが、21世紀にはもう通用しません。もともと日本人の国民性は、政治や経済よりも文化に向いていると言えます。そして、高齢者こそは経済より文化に貢献できる存在なのです。
 文化には訓練だけでなく、人生経験が必要とされます。日本人の文化生活の向上を経験豊かな高齢者に求めるのは間違いでしょうか?
 若者はいつも流行や輸入文化に安易にとびつくものです。彼らが自分たちの身についた文化を創造するためにも、また創造した文化を育てていくためにも、高齢者の存在はとてつもなく大きいのです。高齢者が高い壁として立ちはだかり、若者にそれを越えることを求めてはじめて、文化は向上し、その国の人々の心は豊かになります。
 そして文化にも、高齢者にふさわしい文化というものがあります。長年の経験を積んでものごとに熟達していることを「老熟」といい、長年の経験を積んで大成することを「老成」といいますが、この「老熟」や「老成」が何よりも物を言う文化を、私は「グランドカルチャー」と名づけました。グランドカルチャーは、生け花よりも盆栽、将棋よりも囲碁、短歌よりも俳句、歌舞伎よりも能・・・と挙げていけば、そのニュアンスが伝わると思います。将棋に天才少年は出ても、囲碁の天才少年というのはあまり聞いたことがありません。短歌には男女の恋を詠んだ色っぽいものが多いが、俳句の場合は詠む人が枯れていないと秀句はつくれないといいます。もちろん、どんな文化でも老若男女が楽しめる包容力を持っていますが、特に高齢者と相性のよい文化、すなわちグランドカルチャーというものがたしかにあります。
 グランドカルチャーは、高齢者の心を豊かにし、潤いを与えます。テレビアニメの「サザエさん」一家の家長である磯野波平は、カツオやワカメといった小学生の子がいるとはいえ、明らかにその外見は老人です。彼は家でくつろぐとき、いつも着物の上からチャンチャンコを着て一人で碁を打っています。
 また「ちびまる子ちゃん」には友蔵という、まる子の祖父が出てきますが、彼は何かあると「友蔵 心の俳句」といってすぐ俳句をつくります。といっても、そのほとんどは季語がなく、単なる川柳なのですが。
 いずれにしても、囲碁や俳句といったグランドカルチャーがいかに波平や友蔵の心を豊かにしていることか。そして彼らの人生に潤いを与えていることか!グランドカルチャーは老いを得ていくこと、つまり、「得る老い」を「潤い」とする力を持っているのです。
 またグランドカルチャーによって、人生に潤いを与える仲間を得ることもできます。これまで人々のコミュ二ティの中核をなしてきたのは親族、地域社会、学校、職場などでした。それらを「縁」という視点で見ると、「血縁」「地縁」「学縁」「職縁」となります。しかし今後は文化・スポーツなど趣味をともにする同好の人々からなる「好縁」、さらには道としての文化で人間的完成を求め、ボランテイアやNPO活動で社会への貢献をめざす人々の「道縁」が中心になると思われます。茶道などの道を極め、NPO活動によって気功、太極拳、礼法などを普及させていく。さまざまなグランドカルチャーは、「心の社会」への入り口ではないでしょうか。
 私は拙著『老福論』において、次のジャンルをグランドカルチャーとして取り上げました。すなわち、茶道、囲碁、俳句、盆栽、水墨画、写経、能、相撲、落語、風呂、陶芸、骨董、庭園、琴、三味線、小唄、詩吟、気功、太極拳、着物、礼法などです。本当はまだあるのですが、これらを見ると、グランドカルチャーは西洋文化よりも東洋文化に向いていることがわかります。
 西洋と東洋の文化は明らかに違います。絵画などを見ても、西洋の絵は、多く自然より人間を描いています。ルネッサンスの巨匠の作品でも、やはりもっぱら人間を描いており、自然は単にその背景にとどまっています。また絵の習作をしても、普通まず裸体画から始めます。
 ところが東洋の絵画、殊に文人画などを見ると、人間を通じて自然を描いている。自然というものの中に尊い個性を発見するというふうになっています。それで詩・書・画というものが文人画においては統一され、詩は詩、絵は絵、書は書というように分離しない。絵の稽古を始めるにも、まず石から描き始める。石が本当に描けると、これは一つの至れるものです。
 骨董でもそうです。陽明学者の安岡正篤によれば、結局書画をいじる、骨董をいじるということは、石をいじるということになるそうです。石を愛するということが、私たちの至れる境地と言えるかもしれません。詩などを見ても、絵を見ても、結局石を愛するというような心が詩の極致であり、絵の極致だというのです。
 石というものは生命の最も原始的形態、したがって造化の永遠の相を最もよく象徴するものです。それからだんだん植物になり動物になり、人間になるほど造化というものから派生してきます。昔から「人間、石に興味を抱くようになると老人だ」などと言われますが、石、老い、そして東洋思想は深く関わっているのです。
 みなさんも、小手先の技術や少々の才能など通用しない奥の深い老人文化、グランドカルチャーの世界をお楽しみください。