第5回
一条真也
「養生ということ」

 

 「養生」という言葉が再びブームになっているようです。
 そもそも、古代から、人々は健康と長命を切に願いつづけてきました。日本では、好老社会を築いた江戸時代が大いなる健康指向の時代でした。
 もともと江戸に幕府を開いた徳川家康その人が健康や長命に異常な関心を示しました。織田信長亡き後、天下人となった豊臣秀吉と信長の同盟者であった家康とのあいだには奇妙なパワー・バランスがありました。
 互いに怖れ、機嫌をとりあい、「いつ、あの男が死ぬか」とひそかに思いあってきたに違いありません。もし家康が先に死んだとすれば、秀吉はえたりかしこしと理由を設け、その領土を削るか、分割し去ってしまったでしょう。しかし、実際は秀吉のほうが先に死んだ。家康は内心、「勝負はついには寿命じゃ」と思ったに違いありません。
 また七十を越えてからも、「命を延ばさねばならない」ということは、天下の大政略になりました。家康は天下の行方が自分の寿命ひとつにかかっていることを知りぬいていました。「自分が死ねば大乱が起こるだろう。秀忠ではとうてい天下は保てない。それをふせぐ唯一の道は、わしが長寿を保つことだ」と、家康は考えたはずです。
 家康は肉体・精神ともにきわめて強い武将でした。天下人を目指した信玄、謙信、信長、そして秀吉がいずれも天寿をまっとうすることなく世を去ったのを見てきたから、勝利をつかむには、何としても長生きしなければと養生に励んだのでしょう。若いころから医学に対して異常なほどの関心を持ち、老いてのちは独特の医学観を持ち、むしろ自分の侍医たちの考えの浅さを笑うほどまでになっていました。さらにまた、この人物は17世紀初頭の人間でありながら、運動が保健のもとであるということを体験的に知っており、しかもそれが彼の日々の生活規律にまでなっていました。
 鷹狩りが大好きで、晩年はもっぱらこれに興じています。鷹狩りは野山を疾走して筋骨を動かし、手足を敏捷にさせ、帰れば夜ぐっすり眠れて閨房(けいぼう)からもおのずと遠ざかります。なまはんかな薬を用いるより、はるかにまさる養生の要諦であると家康は言っています。鷹狩りは家康にとって体力を維持しストレスを晴らす最高のレジャーだったのです。いわば現代のゴルフに相当する楽しみと言えるでしょう。
 そんな家康が切り開いた江戸時代には、一人の保健思想の巨人が誕生しました。貝原益軒です。彼ほど「養生」について考え抜き、具体的な技術を示した人はいません。「養生」は、益軒や杉田玄白をはじめ、江戸の人々が日頃から口癖のように使っていた言葉でした。いわば、江戸という好老社会を理解する重要なキーワードであり、コンセプトだったのです。
 この「養生」というコンセプトに江戸の健康観は集約されますが、その基本思想を最もトータルに述べたのが『養生訓』でした。益軒が八十四歳のときに書き上げ、江戸時代髄一のロングセラーになった本です。
 『養生訓』には、いたるところに「常に畏(おそ)れ、慎みあれば、自然に病なし」「色欲をつつしみ」「言葉をつつしみ」「つつしみおそれて保養すれば、かへつて長生きする」といった言葉が出てきます。自然に対する畏れと慎み、この孔子の説く「礼」にも通じる畏敬の精神が「養生」の出発点でした。
 そして、『養生訓』には「楽しむ」という言葉もたくさん出てきます。楽しむことが「養生の本(もと)」であるというのです。楽しむとは、ただ欲望を満足させることではありません。むしろ欲望を制して、真の人生の楽しみを楽しむことです。それには長命でなければなりません。
 ここには、「先憂後楽」という、人生の目標を若いときに置かないで、人生の後半に置いていた江戸の人々の人生観が読み取れます。健康で長命でありたいのは、ただ長生きするだけでなく、老年において真に人生を楽しむためでもあるのです。
 『養生訓』とは、ただ病気をせずに長生きするという健康願望に応えるだけのものではありませんでした。「老い」に価値を置く江戸時代の社会や文化に根ざした死生観に立脚した人間の生き方を説いたものでした。生き方の哲学に裏打ちされた健康の思想と実践、これこそが「養生」ということだったのです。
 そして、「養生」の基本とは、「身をうごかし、気をめぐらす」ということでした。貝原益軒自身、老いても各地を訪ね歩き、知友と交わり、弟子たちを教え、多くの本を書いて、85歳の生涯を悠然と生ききったのです。