第1回
一条真也
「人は老いるほど豊かになる」

 

 人は老いるほど豊かになります。
 「老い」は人類にとって新しい価値です。自然的事実としての「老い」は昔からありましたし、社会的事実としての「老い」も、それぞれの時代、それぞれの社会にありました。しかし、「老い」の持つ意味、そして価値は、これまでとは格段に違ってきています。
 これまで「老い」は否定的にとらえられがちでした。仏教では、生まれること、老いること、病むこと、そして死ぬこと、すなわち「生老病死」を人間にとっての苦悩とみなしています。現在では、生まれることが苦悩とは考えられなくなってきたにせよ、まだ老病死の苦悩が残ります。しかし私たちが一個の生物である以上、老病死は避けることのできない現実です。それならば、いっそ老病死を苦悩ととらえない方が精神衛生上もよいし、前向きに幸福な人生が歩めるのではないでしょうか。すべては、気の持ちようなのです。
 高齢化社会と言われ、世界各国で高齢者が増えてきています。政治や経済の対策の遅れもあって、人類が皆「老い」を持て余している、それが現状でしょう。
 特に日本は世界一高齢化が進んでいる国とされています。しかし、どうもこの国には、高齢化が進行することを否定的にとらえたり、高齢者が多いことを恥じたりする風潮があるようです。作家の堺屋太一さんは、今の日本は史上稀に見る「嫌老好若社会」であると言ってます。世界一の高齢化国などといっても、ほとんどの人は「老い」を嫌い、「若さ」を好んでいる。そして高齢者にとって「老い」は「負い」となる。
 しかし「若さ」を好むのは、実は近代工業社会に特有の現象にすぎません。近代工業社会は「物財の供給増加こそ人間の幸せ」と考え、次々に新しい技術を導入し、規格大量生産を完成させました。そのため、経験や蓄積よりも、すばやく反応できる運動神経や、長時間労働に耐えられる体力や、新しい技術を速やかに覚えなじむ記憶力が重視されたのです。それには若い方が都合がいいのです。
 また、個性のない規格品を大量に生産するため、モノに対する愛着が湧かず、使い捨ての習慣が拡まりました。そこでは若くない高齢者はゴミや廃品扱いされ、使い捨てにされたのです。つまり、人もモノも新しい方がいいというのが近代工業社会でした。
 さらに近代工業社会で「若さ」が好まれ、「老い」が嫌われたもう一つの理由は、人口増加でした。若い勤労者が数多く生まれる人口構造になっていたため、高齢者は早期に引退し、若者に職場と財産を譲るべきだと考えられていたのです。
 ところが、人類がつねに「嫌老好若社会」であったわけではありません。若いことが喜ばれたのは古代と近代だけの特色で、そのあいだの中世は逆に「好老社会」でした。洋の東西を問わず、聖者の像は年齢以上に老けて描かれています。老けて見えることは、神の恩顧には必要なことだ、聖者たるべきものは経験と知恵を備えるべきだ、と思われていたわけです。
 私は古今東西の人物のなかで孔子を最も尊敬しており、何かあれば『論語』を読むことにしています。その『論語』には次の有名な言葉が出てきます。
「われ十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」
 六十になって人の言葉が素直に聞かれ、たとえ自分と違う意見であっても反発しない。七十になると自分の思うままに自由にふるまって、それでいて道を踏み外さないようになった。ここは、孔子が「老い」を衰退ではなく、逆に人間的完成としてとらえる思想が明らかにされています。まさに、人は老いるほど豊かになるのです。
 この豊かな「老い」の人生を、私は「グランドライフ」と呼んでいます。「グランド」とは、グランドホテル、グランドバザールの「グランド」であり、グランドマザー、グランドファーザーの「グランド」です。私は二つの意味を合わせて、「大いなる老いの」という意味で使います。そして、今まで「老後」とか「余生」とか「シルバーライフ」とか何となく後ろ向きにとらえられてきたものを、人生で最も贅沢な時間である「グランドライフ」としてとらえなおしていきたいと思います。そこでは「老い」や「死」をとらえなおすことが前提となります。
 人は必ず老い、そして死にます。「老い」や「死」が不幸であれば、人生はそのまま不幸ということになるのです。これでは、はじめから必ず負ける戦に出ているのと同じではありませんか。
 不幸や苦悩はすべて自分の心が生み出すものです。ですから、これからは次の幸せになる魔法の呪文をいつも心の中で唱えてください。毎日、唱えてください。そうすれば、必ず幸せになれます。
 その呪文とは、こうです。
「人は老いるほど豊かになる」